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政治学者 原武史さん スペシャルインタビュー 第1回目

第1回 失われた歴史の中の天皇論。

原武史さんの著書を読むと、「あたりまえにあるものについては意識されない」ということを強く感じさせられます。たとえば、原さんの著著のテーマである天皇、鉄道、団地。その存在について深く考えることはなくとも、しかし、戦後日本の政治・経済・教育・社会・ライフスタイル・価値感というものは、つねにそうしたあたりまえに存在するものによって無意識に形作られてきたことに気づかされます。政治思想史を専門に明治学院大学で教壇に立つ原先生に、時代によってつくられ、そしてまた失われる“無意識の思想”について、天皇・鉄道・団地をテーマに語っていただきました。
編集部多川(以下多川) 以前、先生が主催する明治学院大学国際学部付属研究所の公開セミナーに参加させていただきました。これまで、天皇、鉄道、団地など様々な切り口・テーマから日本の歴史・思想を紐解いてこられた先生ですが、まず「天皇」について書こうと思われた経緯についてお聞かせ下さい。

明治学院大学公開セミナー

原武史さん(以下原) 昭和天皇の晩年期にあたる87〜88年の1年間、ぼくは日本経済新聞東京本社の社会部に所属し、宮内庁詰めになりました。87年という年は、昭和天皇が「腸の病気」という宮内庁発表で緊急入院・手術して以来、マスコミは厳重な臨戦態勢に入った。マスコミ各社の間では本当の病気はガンではないかと噂されていたので、いつ事態が急変するやもしれずと宮内庁長官の家の前や宮内庁に毎晩深夜まで張り込む毎日が続きました。
多川 取材活動を通して、先生自身の天皇や天皇制に対する考えやイメージは変わりましたか?
かなり変わりましたね。だって、皇居なんて東京の真ん中にあるのに、誰も入れないわけでしょ。誰も入れない宮内庁の建物に足を踏み入れたということだけでものすごくセンセーショナルな驚きですよ。宮内庁なんて、それこそ戦前の宮内省と同じ建物です。ここで玉音放送の録音が行われたのか・・・とか、激動の昭和史の足跡が鮮明に焼きついている場所といえば、どこよりも皇居なんじゃないでしょうか。
多川 以前、佐野眞一さんにインタビューさせていただいたときに「平成の皇室は都市型の天皇制だった」とお話しされていましたが、原先生はどのように感じられますか?
日本社会の都市化や都会的な個人志向の生活が進んでいく今の時代において、天皇制というしくみ・制度・存在そのものが噛み合わなくなってきたんじゃないでしょうか。もともと天皇というのは五穀豊穣を神に祈ったり、秋の収穫を神に感謝したりする存在で、そういう存在に対するありがたさや畏敬の念というのは、日本社会が米を作る農村社会であることが前提があってこそ生まれるものでしょう。
多川 確かに、コンピュータ・ネットワークを中心とした産業社会、ビジネス社会、サラリーマン社会で人々が求める幸せのヴィジョンは「五穀豊穣」ではないでしょうね。
そう、だから次の代になれば、かなりの断絶が避けられないでしょうね。
今回みたいに、地方の農村や漁村が大きな被害を負う災害が発生したとき、皇太子夫妻が避難所を回っても、天皇夫妻のように国民と通じ合う心の連帯を持ち得るかどうかは難しいでしょう。なぜなら今の皇太子もそうですし、皇太子妃も完全に都会型です。皇太子はずっと港区で育ってますし、皇太子妃は目黒区でしょ。でも、今の天皇夫妻は疎開を経験していますし、現天皇は戦後の一時期にまだ農村地帯が広がっていた都下の小金井で暮らしています。しかも現天皇はハゼの研究を通して海とも接点をもっているので、農村や漁村の生活や文化を肌で知っているわけです。同じ時代に、同じ痛み、苦しみを共有していると国民自身が思えるかどうか。そういう精神的なつながりが、天皇制においては最も重要なんじゃないでしょうか。
多川 でも今の若い人にとったら、大災害が起こると出てくる人というイメージでしょうね。非常時には確かに象徴的に意識されるものですが、平時にはほとんど意識されない存在になっていますよね。
そうなんです。天皇夫妻の被災地訪問を戦後巡幸と比較する人もいますが、僕は少し違う見方をしています。第一に戦後巡幸は全国的な規模で行われたもので、そのスケールも旗を振って迎える人の数が違います。全国各地に奉迎場ができて、昭和天皇が現れてみんなで万歳するために何万という人だかりができた。交通手段も、今は空路でしょ。そうなるとピンポイントです。戦後巡幸は主に鉄道を使いましたから、行く先々の沿線・駅に黒山の人だかりができて、みんなが万歳している。その光景からして違いますよね。天皇夫妻の身体や健康状態の心配もあり、なるべく負担にならないようにという宮内庁の考えかもしれませんが、そういうピンポイントの巡幸では「点」が「線」につながらない。訪問先の体育館でも、被災者と同じ目線で話しますから、天皇の存在が埋もれちゃうんですよ。
多川 昭和天皇の戦後巡幸の写真を見ると、頭を下げるわけでも膝をつくわけでもなく帽子を片手でちょっと取って「やあ、君たち」みたいな、平民とは絶対的に違う威厳・威光を感じました。
奉迎場で台座に立つのは天皇で、頭を下げるのは市民のほうですから。平成になると、そういう関係性はほとんど失われました。
多川 昭和と平成、天皇と国民の関係性がこれほど大きく変わってしまったのはなぜなんでしょうか。
ひとつは、天皇の突出性・カリスマ性が失われたことでしょうか。というのは、戦後巡幸を行ったのは天皇ひとり。皇后が同行したのは北海道だけ。それが平成になると、必ず皇后と一緒ですよね。そうすると天皇という存在が突出しない。天皇だけだったら、昭和時代のように「君民一体」とか「一君万民」とか、そういう言葉が浮かぶけど天皇・皇后となると、そうはならない。むしろ皇后が存在感を際立たせている。皇后の存在感が非常に大きいという時点で、皇室の役割が変わってきているわけです。
多川 そうですね、自分自身、皇室のイメージは完全に美智子さまです。美智子さまの存在があればこそ平成の代でも皇室の伝統は守られているように思えるのですが・・・
国民の慈母というべき皇后の慈善福祉的な役割は、皇室の伝統としてあるんです。大正天皇の妻であった貞明皇后は、ハンセン病患者や燈台守など社会から疎外されている人たちに温かい手を差し伸べる救済活動に力を注いだ。ただ、そうした皇后の慈善活動は表に出るものではなく、あくまで大元帥・天皇の陰に隠れた話だったんですよね。それが天皇の権威が薄れて行くなかで、皇后の存在感が増して、皇后の慈愛に満ちた精神がそのまま皇室のイメージになった。
多川 イギリスもそうですが、「国民に愛される王室・皇室」を保つためには、今の時代、皇后のイメージが非常に重要なんでしょうね。
明治から昭和初期までは、政治や軍事や教育の中心に天皇があった。でも、今や天皇はナショナリズムの中心でなくなった。それまで日本人は天皇という存在に日本という国家を意識したわけです。それが日本人のナショナリズムだった。日の丸、君が代もそう。でも、たとえば今、サッカーのワールドカップで「ニッポン、ニッポン」と叫ぶ彼らは、天皇が好きだから「ニッポン」って叫んでいるわけじゃない。天皇なきナショナリズムといいますが、平成のナショナリズムのことを。
多川 そうなってくると「天皇は女系でもいいじゃないか」や「皇室廃止論」など色んな議論が出てきて然りなんでしょうか?
いや、色んな議論が出てくるというのは問題ではなく、一番問題なのは、もはや天皇というものに何の関心も持たない層が多数派になっていることでしょうね。今の学生なんて、もはや皇居がどこにあるかも知らないしね。前期の試験で思わずぶったまげたというか、笑っちゃったのが、天皇陛下っていう漢字が書けない。天皇「階下」になってる。
多川 時代って、ほんとに怖ろしいですね(笑)。
編集部 わたしはハワイが好きでハワイの伝統や歴史文化について学んでいるんですが、
ハワイの人々にとって王の歴史、王の歌、王の言葉・祝詞というのは自分たちのアイデンティティになっているように感じます。自分もそうですが日本の場合、天皇や皇室に対して興味を持てないのは、オープンになっていないからではないかと・・・。
「開かれた皇室」といっても、オープンではないですよね。皇室が日本を「象徴するもの」として意識される究極の方法は何かと言うと、それは「失われる」ことなんですよ。中国も韓国もそうなんですが、帝国が滅亡し、紫禁城や王宮から主がいなくなって初めてその偉大さ、貴重さ、ありがたさがわかる。そしてその国の重要な観光資源になる。もっとも英国のように、失われなくても高い入場料をとり、バッキンガム宮殿やウインザー城などを一時的に公開している国もありますが。
多川 それこそ老舗百貨店の閉店セールに群がるみたいに、失われたからこそ追い求めたくなるのが人の心なので、きっと日本の皇室が途絶えたら皇居は世界に誇る日本の観光資源になるんでしょうね・・・
世界各国の首都には、その国の歴史を展示する博物館が必ずある。でも東京は「そこに行けばその国の歴史がすべてわかる」という国立博物館がないんです。強いていえば、靖国神社の遊就館(ゆうしゅうかん)にしかない。でも、遊就館は歴史観が偏り過ぎてて、あれが日本の歴史だと思われるのはちょっと困る。現在公開されている皇居東御苑のなかにある江戸城の本丸を復元して、そこを博物館にするという手もありますが、皇居そのものに博物館を作ってしまうのが一番いいと思います。右派の人たちからはとんでもないと怒られるかもしれませんが、皇居がどこかわからない若年層が増えているわけですから、このくらいラディカルなことを考えなければダメだと思うのです。たとえば1945(昭和20)年の8月、終戦の聖断が下された場所は、御文庫と呼ばれる天皇の住まいに付属して作られた地下壕の中なんです。でも、未だに誰も見たことがない。
多川 「そのとき歴史が動いた」、まさにその場所ですね。自国の歴史、日本の歩みを知る上で重要な場所が公開されるには、天皇制の歴史が終わらないと無理でしょうね・・・。終わって初めて気づくこのパターン、何とかならないもんでしょうか(苦笑)
閉ざされているのは皇居だけじゃなく、天皇陵だって一切立ち入り禁止だからね。それこそ大阪の大仙陵古墳、いわゆる仁徳天皇陵なんて、公開すれば大阪で一番の観光地になりますよ。何しろ、日本で最大の前方後円墳ですからね。もし五稜郭のように、古墳の近くに展望タワーを設ければ、それはもう壮大な眺めだと思いますよ。
(Information)
2011年度 明治学院大学 公開講座
「歴史と現在」 
開催時間:16:45〜18:15(開場16:35)
会場:明治学院大学横浜キャンパス
受講料:各回100円
※事前申込み不要。

第4回 10月25日(火) 渡辺 裕(音楽史家、東京大学教授)+原 武史(音楽)
第5回 11月11日(金) 八代 亜紀(歌手、画家)+原 武史(演歌と夜汽車)
第6回 11月15日(火) 宮部 みゆき(作家)+原 武史(文学と東京)
第7回 11月22日(火) 佐藤 卓己(歴史学者、京都大学准教授)+伊藤 秀爾(明治学院大学卒業生、東京大学大学院生)(メディア史)
第8回 11月29日(火) 山内 昌之(歴史学者、東京大学教授)+大川 玲子(イスラーム思想研究者、明治学院大学准教授) (イスラーム)
第9回 12月6日(火) 中沢 新一(思想家、人類学者、明治大学特任教授)+高橋 源一郎(作家、文芸評論家、明治学院大学教授) (文明の転換)
第10回 12月13日(火) 平野 勝之(映画監督)+高橋 源一郎(ドキュメンタリー)

詳しくはこちら

撮影/岡崎健志
010 政治学者 原 武史さん Interview
第1回 失われた歴史の中の天皇論。 2011年10月24日更新
第2回 鉄道から見える、日本の歪み。 2011年11月7日更新
第3回 1974—2011 団地の過去・現在 2011年11月21日更新

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1件のコメント

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はら・たけし
1962(昭和37)年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。国立国会図書館、日本経済新聞社に入社。昭和天皇の最晩年を取材する。東京大学大学院博士課程中退。現在、明治学院大学教授、専攻は日本政治思想史。著書に『昭和天皇』(司馬遼太郎賞受賞)、『滝山コミューン一九七四』(講談社ノンフィクション賞受賞)、『「民都」大阪対「帝都」東京』(サントリー学芸賞受賞)、『大正天皇』(毎日出版文化賞受賞)など。

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