編集部多川(以下多川) |
先生の著書『滝山コミューン 1974』には、60〜70年の高度成長期、郊外団地の小学校で実際に行われていた“自由民主的な教育”というものの実態が、先生自身の回想ドキュメンタリーとして描かれています。中でもわたしが異様に感じたのは軍隊の集団統制のような「班づくり」、「班行動」です。
確かに自分が小学校の頃も「班」はありましたが、それは給食や掃除などの役割分担のためのもので、この本にあるような同じクラスの生徒たちを班同士で敵対視させ、競わせることで、集団的能力のレベルアップを図るような苛烈なものではなかったです。民主主義的教育と掲げつつ、中身は完全に社会主義的集団教育ですよね。
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原武史さん(以下原) |
「班による学級づくり」を提唱したのは、全国生活指導研究協議会(略して全生研)という日教組から分かれた民間教育団体のひとつ。全生研が強調した集団主義教育の基本理念というのが「大衆社会の中で子どもたちの中に生まれてきている個人主義、自由主義意識を集団主義的なものへと変革する」。その文言からして、スターリン時代のソ連の教育学者、マカレンコの影響が色濃く反映されていることは確かでしょう。でも表向きは「民主主義的教育」。絶対に共産主義とは言わなかったですね。 |
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多川 |
班ごとに評価査定項目があったり、課外活動の係を決めるのも立候補・選挙制で、総会と称する学級会で自分たちがいかにその係にふさわしいかの声明文を読み上げる。しかも、何の係も与えられなかった班は「ボロ班」「ビリ班」などと呼ばれる。これはソビエト式の集団教育なんですか? |
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原 |
というか、本家ソビエトより日本の方がもっと徹底していましたね。少なくともマカレンコの著作には、個人を特定しない形で集団の規律を重んじるような工夫が凝らされていましたので、「ボロ班」や「追求」に相当する言葉は出てきません。いまだにね、林間学校を前に6年生全員を集めて体育館で開かれた総会とか、当時のことを思い出すと背筋が寒くなる。
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多川 |
それほど苛烈な集団主義的教育は、先生の住んでいた地域だけでなく全国的に行われていたものなんですか? |
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原 |
拙著を読んで「自分も似たような体験をした」という声は、同世代はもちろん、かなり下の世代からも聞こえてきました。だから想像以上に浸透していたと思います。 |
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多川 |
基本的に東京を中心とした都市型の教育システムですよね? |
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原 |
いや、必ずしもそうではありません。「班づくり」や「学級集団づくり」を主導した大西忠治という先生は、香川県で教えていました。同じ多摩地域でも、私が住んでいた東久留米では小学校に全生研方式が取り入れられましたが、隣の小平ではそうでもなかったようです。 |
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多川 |
ただ、ある面で、徹底した集団教育は強烈なインパクトでもって眠っていた自我や能力を目覚めさせる効果もあったりしますよね。 |
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原 |
個人の能力開発という面では、確かに大きい部分はあります。「学級集団づくり」を主導していた6年5組でも、何かひとつ評価され引き上げられることで自分の素質を見出し、イキイキしていく子もいました。でも、ひとつ失敗やミスをしただけで全否定される恐怖心から、日常的にストレスを抱えていた子もいた。自我の目覚める小学校高学年の時代に、人生をある意味で規定してしまうような教育を与えられると、人は一生そこから逃れることができない。そういう「取り返しのつかなさ」が教育の恐ろしさでしょうね。政治思想に興味を持つようになったのも、東久留米市立第七小学校での苦々しい体験、「なぜ、こういうことが起こるのか」と悩み続けたことが原点ですから。
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多川 |
わたしが忘れられないといえば、中学時代の同和教育です。集団登校でデモ行進や、同和地区の生徒を叱責した先生が全校集会で糾弾されたり。週に3回も道徳の時間があって、そこで批判的な発言をすると「おまえそれでも人間か!」みたいな非国民扱い。 |
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原 |
それもひとつの思想教育だね。
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多川 |
教育もそうですし、鉄道、交通、都市のシステム、原発もそう。自分たちがあたりまえに受け取っているすべてに、見えない形で折り込まれているのが政治イデオロギーなんですね。
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原 |
たとえば、それが昔からある共同体に、いきなり誰か新しい団体などが現れて「集団主義教育を始めます!」みたいなことになれば、わかりやすい。あきらかな異分子であれば見えやすいわけです。でも、この「滝山コミューン」の場合は、「異分子が紛れ込んだ感」を感じようがない。なぜかというと、滝山団地自体が、何もなかった無人の雑木林を切り開いて作られた町であり、全員が新参者。どこにも根がないんです。団地に移ってきた人間はみな4人家族で、子どもが2〜3人いて、お父さんはサラリーマンで、お母さんは専業主婦。恐ろしいくらい画一的で同質的。統制コントロールが効きやすい条件がうまい具合に揃った地域だったんです。 |
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多川 |
国策として、集団主義教育を推進した事実はあるんですか? |
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原 |
国ではなく、全生研が自分たちの研究マニュアルに添って実施していました。
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多川 |
ひとつの「試み」ということですか? |
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原 |
その時代的にみれば、新しい試みに見えたんでしょう。教育熱心な母親たちに非常にウケが良かった。当時はPTAの力が強大でしたから、教師、PTAの連携によって、理想の教育を作りあげようとしたわけです。公立の小学校ですから文部省の指導もあったはずですが、日の丸を見たこともなければ、君が代を歌ったこともありませんでした。
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多川 |
小学校時代のイヤな記憶を除いて、郊外団地で育った少年として、今も懐かしく思い出す「団地暮らしの良さ」はありますか? |
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原 |
もちろん、ありますよ。非常に世帯数の多い巨大な団地でしたから、遊び友達は多かった。弟や妹も一緒に、いつも十何人一緒に遊んでました。
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多川 |
自分が小さい時は文化住宅に住んでいて、その近くに公団があって、団地内は車が通らないので恰好の遊び場で、団地の子や近所の子、みんな集まって遊んでました。自然に年長の子がリーダーになって、小さい子の面倒を見たり。わたしもよく遊んでもらったり、意地悪されたり、泣かされたりした記憶があります。 |
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原 |
自主性や社会性や協調性というものを育むには、子ども同士で遊ぶ、子どもだけの世界が必要なんですよ。つまり、放っておいても子どもたちは集団をつくる。それを政治的イデオロギーが絡んだ「学級集団づくり」でやろうとするから「滝山コミューン」みたいな世界が出来上がる。 |
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多川 |
先生が子どもの頃、70年代初めに建設された公団、ニュータウンと呼ばれた団地は、すでに40年以上が経ち、高齢化と老朽化によって廃墟と化している現状があります。一方で、安い賃料で単身若者や学生を呼びこむ団地再生の取り組みなども聞かれますが、先生自身は団地のこれからのあるべき姿をどのようにお考えですか?
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原 |
阪神淡路大震災の時も今回の震災でも、つねに議論されるのは仮設住宅のコミュニティづくりの問題。住居を建てるだけではなく、共通の広場、会合できる場所を作ることが重要だと言われますが、1950年代後半から始まる公団住宅の歴史から学ぶべき点は非常に多いのではないでしょうか。公団は「ハコ」をつくっただけで、コミュニティをつくったわけではなかった。いざ住んでみると、予想もしなかったようなさまざまな不便や困難に見舞われた。これは一人ではとても解決できないということで、自治会やサークルが生まれ、住民自身による自治活動へと発展していった。ところが、そこに党派的なものが入ってくるわけです。私が住んでいた滝山団地は、まさにその典型でした。そういう団地的な住民自治の歴史やあり方を振り返ると、「滝山コミューン」のような負の側面が見えてくる一方、団地独特の温もりのあるコミュニティや住まいの形もまた見えてくる。今、団地に関心を持つ若者や若い世代が増えているということは、わずらわしい面もあるけどありがたいと思える人のつながりが生まれやすい環境やきっかけが、そこにあるからでしょう。 |
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