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カルーセル麻紀さん スペシャルインタビュー 第1回目

第1回 ゲイを夢見る少年から、究極の女へ。

昭和50年代、大阪のテレビ番組でその美貌と毒舌トークに魅了された小学生のわたしは、母親から「この人、ほんまは男やで」と聞かされたときの衝撃を今も鮮烈に記憶している。わたしにとって、カルーセル麻紀さんは「日本で初めて性転換手術をしたすごい人」であり、いわばそれは、世界で初めて月面着陸した、日本人で初めてエベレスト登頂に成功したのと変わらない前人未踏の挑戦であったと、尊敬してやまない女性のひとりとしてその生き様を自分の胸に刻みつけたいとインタビューさせていただいた。
幼心にゲイという世界、ニューハーフという生き方、さらにはモロッコという性転換手術の国があることなど、学校では教わらない世の真実を教えてくれたカルーセル麻紀さんに、今またわたしは「自由に生きる不自由さ」を教えられた。自分らしくありのまま自然体で生きるということは、裸になり、身を切り、血を流し、苦痛に耐え、闘い続けることだということを。
編集部多川(以下多川) テレビや雑誌メディアでは「おねえキャラ」「おねえマン」と呼ばれるタレントたちが隆盛を極めている時代ですが、カルーセルさんの若い頃と比べてあきらかに「時代が変わった」と思われることはありますか?
カルーセル麻紀さん(以下カルーセル) それはもう、世の中の見る眼が変わったわよね。わたしなんて30歳まで本名を言わなかったし、言えなかった。兄弟や親戚に迷惑かけるのがいやでね。一番下の妹が結婚するとき、母親が思い切って相手の両親に「実は、この子の兄にひとり変なのがおりまして」って打ち明けたらしいの。向こうはてっきり犯罪者か暴力団か戦々恐々よ。母親は恐る恐る「あの、カルーセル麻紀ってご存知ですか? 実は、この娘の兄なんです」って切り出すと、相手の表情がぱっと明るくなって「ああ知ってます。わたしたち大ファンなので、ぜひ、結婚式に出席していただきたい」って、まさかの大歓迎よ。わたし9人きょうだいなんだけど、身内の結婚式に出たのはその妹が初めてだったわ。
多川 それこそ「性同一性障害」という言葉が知られるようになったのも、平成に入ってからですよね。近頃だと、女子の心を持つ男子は、学校でも女子と一緒に着替えても許されたり、先生も生徒も「女子」として接してくれているみたいな話を聞くと、「はじめに言葉ありき」というのはほんとにそうだと思います。自分たちとは違う異形のものを理解する言葉がないと、理解しようとしても理解できないのかもしれないですね。
カルーセル この前もね、IKKOがテレビに出てたんですけど、彼女、福岡の田舎町の出身で、そこの観光大使に任命されたんだって。その町の役所の玄関にこ〜んな大きな彼女のパネルが飾られるような、そんな時代になったわけよ。だって、わたしの時代は、ショーや営業で自分の故郷・北海道に帰るたび、「恥さらし」と蔑まれ罵られた時代だったわよ。それが今では「オカマ」や「ゲイ」が故郷の英雄として讃えられるなんて、時代の変化というのは恐ろしいものよねぇ(笑)。
多川 テレビの世界での立ち位置というか、その扱われ方もカルーセルさんの時代と今ではまったく違っていたと思うんですが。
カルーセル 全然違うわよ。わたしがテレビに出始めた70〜80年頃は完全に見世物、化け物扱いよ。自分たちとは違う人間をバカにして笑いモノにするクイズや演出ばかりで、あまりの低俗さ、醜悪さに耐えきれず、本番中スタジオから飛び出したことも一度や二度じゃないわ。

多川 カルーセルさんのように、その時代の常識や価値感と闘ってきた人の歴史があったから、わたしたちの今があるというようなことを、以前、マツコ・デラックスさんが語られていました。
カルーセル マツコは昔から私のことをよくコラムに書いてくれたり。この世界の先輩としてわたしのことを見てくれてたみたいね。実際に彼女と会ったことはなかったんだけど、ちょうど先日、テレビの収録でたまたま楽屋が近くだったのよ。そしたら、わたしの楽屋をノックする音がして開けたらマツコが「先生、ようやくお会いできました〜!」って。思わず抱きしめたんだけど、手がぜんぜん届かなくって(笑)。自分より若い子たちが、ちゃんと見てくれてるんだなぁと思うと嬉しいわよね。
多川 おねえキャラと呼ばれるタレント芸能人は大勢いる中で、カルーセルさんが傑出しているのは、自分のセクシャリティを売り物にしていない、甘んじていないところだと思うんです。本当は男なのに女よりもキレイだとか、見かけのインパクトやギャップが物珍しがられるのは最初のうちだけで、それだけだと見せ方は違えど「見世物」の域は出ないじゃないかと・・・。
カルーセル 女と見せて実は男、キャーびっくり!なんて、2〜3回やれば終わりよ。そんなの何回も見せられても、ちっとも面白くないでしょ。「弁天小僧」じゃないけど、男役と女役を股にかけて世の中のウソやカラクリをスパッと斬って見せる芸がなきゃ、しゃべれなきゃ、続かないわよ。
多川 カルーセルさんの芸に対する厳しい姿勢は、ショーパブ・ゲイバーでの下積み時代に仕込まれたものだとか。最初に「ゲイの世界で生きよう」と志を決めたのはいくつの時だったんですか?

カルーセル 14歳の頃に読んだ三島由紀夫の小説「禁色」、そして麗しのゲイボーイとして一世を風靡した美輪明宏さんの存在が、わたしみたいな人間が生きる世界を教えてくれた。ひと筋の光を与えてくれたの。それで15歳のとき、釧路から汽車に乗って東京へ向かったんだけど、運悪く車掌に家出少年だと見破られちゃって。それで捕まりそうになったから、走ってる汽車から荷物を放り投げて飛び降りたの。それで、とりあえず札幌のススキノに行って「このあたりにゲイバーありませんか?」って訊ね歩いたら「競馬場は遠いよ」って。それくらい普通の人は「ゲイバー」なんて知らない時代だったのよ。それで飲み屋街を歩いている流しのお兄さんなら知ってるだろうと訊いてみたら「なんだ坊主、ゲイボーイになるのかい?」って、店まで案内して連れて行ってくれたのよ。そこがわたしの夢への第一歩、札幌唯一のゲイバー「ベラミ」だったの。住み込みの下積み生活だったけど、この世界の礼儀やマナー、接客接待のイロハ、ドレスの着こなし、和装の着付け、それに男の騙し方、悦ばせ方まで、徹底して仕込んでもらった。その頃の毎日は忙しくて辛くて恐くて、でも楽しかったわよ。
多川 わたしは大阪で、「11PM」とか、子どもの頃からカルーセルさんが出演するテレビを見ていたので、てっきり大阪出身だと思ってました。
カルーセル そうなのよ、一時、大阪のレギュラー番組にたくさん出ていたから、よく大阪人だと勘違いされるのよ。映画やドラマもなぜか関西弁の役が回ってきたり。でも、大阪に行くと大阪弁になっちゃうわね。何しろわたし「フーテンの麻紀」と呼ばれるくらい全国渡り歩いてたから、その土地に行けばその土地に順応できちゃうの。15歳から札幌、旭川、根室、帯広、室蘭と北海道中のゲイバーを転々と総なめにして、その後は東京、大阪、松山、福岡、そしてまた札幌と、最初に札幌を出てから19歳になって大阪に落ち着くまで、移り住んだ都市は13都市、引っ越し回数16回。まあ、その間には、惚れたはれたの駆け落ちや色恋沙汰も話したらキリがないほどあったけどね(笑)。
多川 そのゲイの世界というのも、価値感を同じくするひとつのコミュニティとして、それなりの仁義やルールみたいなのがあるんでしょうね。
カルーセル たとえは悪いかも知れないけど、義理と筋を重んじるのは、それこそやくざの世界みたいなもんで、お世話になったママや店に恩を仇で返すようなマネは許されない。でも、今の時代は、「わたしオンナになりたいんですぅ」でオンナになれる時代だから、仕込み修行なんてないしね。そういう昔気質な流儀なんて今はないのかもしれないけど。私たちは、ある意味、置屋みたいなところでお姉さんたちの炊事洗濯、身の回りのお世話をして、「オンナとして生きる道」をこの身に叩き込んで、身に付けていくわけよ。「オンナになりたい」っていったって、ただ着飾って女のフリすりゃいいってもんじゃないと思うんだけどね。
多川 カルーセルさんは、完全に女になるために、三十歳のときに海外で性転換手術を受けられましたが、その当時は日本ではまだ性転換手術は認められていなかったし、命を落とす危険も大きかった。それでも手術を受けたのは、つまり、命を賭けてでも女になりたかったということなんでしょうか?
カルーセル ゲイボーイとしてデビューしてから、すでに去勢手術を受けていました。いわゆるタマタマは取ったけどサオはまだ残っている状態よ。わたしはモロッコで手術を受けましたが、確かに術後亡くなった人も多かったですし、もちろん戸惑いはありましたよ。でも、最後は自分の運に賭けたってことでしょうね。
パリのゲイ仲間や友人を頼りにまずフランスへ飛んで、それからモロッコへ。1年間、芸能活動から離れることで、この先仕事がなくなる不安もあったけど、それでもかまわないと思った。女になると決めたからには、究極の女になりたかったの。
多川 思い込んだら命がけ、やるとなったらとことんやる。その手加減のなさ、底なしのチャレンジ精神、直感勝負の行動力こそ、“女らしさの極致”ではないかと。
カルーセル わたしの本名ご存知? 「徹男」ってゆうのよ。いかつい名前でしょ。父が付けてくれたんだけど、戦中派の父親らしく「アメリカと徹底的に闘える男になれ、男に徹する男になれ」という願いを込めて「徹男」よ。残念ながら、親の意に反して「女に徹する男」になっちゃったけどね(笑)。
多川 いやでも、自分が信じるもののために徹底的に闘い続けたカルーセルさんの生き様、自分の正しさ、意志に徹する生き方は、お父さまの願い通り「徹男」そのものだと思います。ただ、お父さまにとっては思いも寄らない、信じられない方向性だったでしょうが・・・(苦笑)。
カルーセル そうよねぇ。何しろ厳格で硬派な昔の父親でしたから、息子が女になるなんて、天地がひっくり返るほどのショックだったと思うわよ。
撮影/岡崎健志
011 カルーセル麻紀さん Interview
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第4回 男と女、ハイブリッドな私の人生。 2012年2月17日更新

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1件のコメント

『自分らしくありのまま自然体で生きるということは、裸になり、身を切り、血を流し、苦痛に耐え、闘い続けることだということを。』…感動しました!

by mako - 2012/01/12 11:38 AM

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カルーセル麻紀さん スペシャルインタビュー 第1回目




かるーせる・まき
1942年北海道生まれ。15歳で高校を中退し、札幌の「クラブ・ベラミ」などで働き始める。その後、大阪「カルーゼル」をはじめ全国のクラブで人気を博す。19歳のとき、市川猿之助のすすめで、日劇ミュージックホールのオーディションを受け、以後、舞台、映画、テレビなど幅広く活躍。1972年、モロッコで性転換手術を受ける。2004年、戸籍の性別変更を届け、戸籍上も女性となる。

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