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魚見幸代(以下魚見)
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「私という人間は、対人関係ごとのいくつかの分人によって構成される。その人らしさというものは、その複数の分人構成比率によって決定される」という分人の考え方を取り入れると、自分の中でもやもやとしていたものが、整理されつつ、問題提起もされてきます。例えば、原発や戦争について。もちろん、戦争賛成という人はいないでしょうが、考え方が違う人たちについて、それぞれ、いろんな分人の重なりの中でそういう考えになっている。ということは、新しい人との分人によって自分の考えが変わる可能性もあるということですよね。
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平野啓一郎さん(以下、平野)
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戦争賛成とは言わないけど、実際には賛成と言っているのと同じことをやっている人はいますよね。
それは抽象的な思想というよりも、対人関係が大きいと思います。僕は子どものときは、自分は保守的な人間だと思っていたんですよ。実家は北九州の田舎で、冷戦時代でしたから、社会主義、共産主義に対する偏見はすごくありましたし、作家でも三島由紀夫が好きでしたから。だけど、自分の中でゆるやかに、すごく左翼だとは思わないですけど、中道左派ぐらいのリベラルに寄っていったプロセスがありますね。それは、その思想を信じている人の影響ですよ。
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魚見
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人に影響されているうちに、自分の考えもできあがってくるということですか?
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平野
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結果論みたいなところもあります。今のヘイトスピーチとか見ていると、自分があっちの側じゃなくてよかったとつくづく思いますが、なぜあっち側の人間にならずにすんだのかとも思います。いい影響も悪い影響も、抽象的に思考してというだけじゃなくて、対人関係の中で被ったもの大きい。例えば、何かを注意をされたとして、あいつに言われたら腹が立つけど、同じ言葉でもこの人から言われたら素直に聞く気になるとか。それは普通の生活レベルだけではなくて、選挙でも2000年代頃、人ではなく、政策や政党で選ぶべきだとさんざん言っていましたよね。するとなんとかチルドレンとかどうしようもない議員がいっぱいでてくるわけです。政策も大事だけど、日本の政治は自由委任だし、人を見ないといけないんじゃないかなと。
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魚見
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なるほど。ただ、結果論となると、つき合う相手によってうっかり悪い影響にとらわれてしまうということもあるわけですよね。
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平野
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はい。といっても、この人に影響されたら困るからと、シニカルにつき合うのはいいとは思いません。それぞれの関係を相対化できるように、まったく別の場所の人ともつき合うことで、なにかひとつにのめり込んで、とれわれてしまわないようにするのが大事かと思いますね。
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魚見
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平野さんの作品は、殺人や自殺、テロ、ネット社会の罠など社会の深い闇が扱われています。生きることを肯定していくという発想から分人を提唱されているということでしたが、これらのテーマを取り上げる元になっているものはなんですか?
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平野
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やっぱり…自分の中にあるんでしょうね、そういうものが。
人を殺したいとか死にたいという感情から出発しているのではなくて、人を殺してはいけません、自殺はいけませんという日常のほうから出発しているとは思いますけどね。その世の中に対して、どこかずっとなじみきれないというか、違和感があるんです。日常の秩序からはみ出たいというか。ポジティブな意味では、コンサートに行って陶酔感に浸るといった圧倒的な美的な体験も非日常かもしれないけど、生きることをやめるとか、人を殺すということも、その外側にはある。人間はなにかのきっかけがあって、そうなる可能性があると思うし、ちょっとしたきっかけでなくて、生まれてからの環境でそうなってしまう人もいる。それは正しくないといっても仕方がない気がするんですね。
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魚見
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はい。分人という考え方は、思想の違いだけでなく、そういう秩序においても変わってしまう可能性があると知ることができます。自分はそうならないと思っていても、「絶対ない」ことはなく、もしかしたら…と。
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平野
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最終的には、人が人を殺さないとか、できるだけ寿命まで長く生きたほうがいいという価値観に自分はたどり着いているんですけど、そのプロセスとして自分なりに納得したいというのがあるんです。
僕は当たり前ですけど、ドラッグとかやらないんです。
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魚見
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はい(苦笑)。
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平野
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気持ちよくなるぐらいならいいんですけど、やらないのは、なんかすごいことをしてしまうのではないかって気がするんですよ。幻覚作用で日常は抑圧しているものが溢れ出したりするのは怖いですよ。自分をそんなに信用できない。普通の生活を営んでいますけど、タガが外れると怖いなという気持ちがありますね。
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魚見
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それはどこかで形成された分人なんですか?
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平野
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僕の場合は父親が早くに死んでいるので、死を意識することが早かったですし、死は日常と地続きで、特別ではないというところがありました。どうして人は人を殺してはいけないのかと、理屈で考えますけど、体で身に染みて納得していないと、何かのときに踏み越えてしまうような気もしますね。
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魚見
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それはバラバラ殺人事件を取り扱った『決壊』のなかで得られたところですか?
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平野
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人を殺すということは、被害者の生命はもちろん、その人が他者と築いているすべての分人関係を奪いさってしまうことになる。人間は、他人なしでは新しい自分になれないのだから、一人の人間が死ぬことで未来において無数の人間が好きな自分になりえたかもしれない可能性を失います。そして殺人者は、自らの家族や知人を、殺人者との分人を抱える人にしてしまう。分人の視点でみると、人を殺してはならない理由はこんなにも複雑で大規模な破壊をもたらしています。
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魚見
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『決壊』という作品は、実をいいますと怖くて、ずっと手が出せかったんです。でもどうして酷い殺人事件がおこるのか、理解できないと思ってしまうことについてもなにかヒントが見つかるのではないかと、読み始めました。
殺人を犯すほどの理由はでてくるのだろうかと読み進めても、最後まで絶望的で救いがなくて。
それなのに、うまく言葉が見つからないんですけど、ほっとしているところもあったんです。納得できることではないというか…。
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平野
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あの小説を書くときに、犯罪被害者の人たちや遺族に取材をしたんですね。そうすると、やはり、なかなか救いというのは容易じゃない。加害者の家庭が崩壊するというのは想像できますが、被害者の家庭も崩壊してしまう。
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魚見
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小説にあったように、精神的に病気になったり?
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平野
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それもありますし、例えばどこかの段階で、父親が「苦しい経験だけど、この事件は忘れて前向きに生きようとか、犯人を赦そう」と言ったとして、母親のほうは「どうしてそんなことができるんだ」と深刻な対立になったり。そういうことが現実としてあるのに、小説だからといって最後をハッピーエンドにしてしまうと、その人たちが取り残されてしまう感じがしたんですよ。病気なのか、なんなのか…残念ながら残酷な犯罪を犯す人はいます。だから、その現実は現実として書いて、そのうえで自分なりに今の世の中をどう生きていったらいいのかを改めて考えるべきかなと思ったんです。
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