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政治活動家 鈴木邦男さんスペシャルインタビュー 第2回 運動の原点は三島事件、森田必勝の死。

第2回 運動の原点は三島事件、森田必勝の死。

編集部多川(以下多川) 左翼運動が目指したマルクス主義、階級制度の粉砕、反権力、革命、共産主義化というのは好き嫌いはともかく、理念としてはわかりやすかったりするじゃないですか。でも、じゃあ日本の右翼がめざす社会とはどういうものかといわれると、今ひとつわからないのですが・・・。
鈴木邦男さん(以下鈴木) ぼくらもよくわからなかったんですよ。
多川 えっ?
鈴木 いや。あの当時は、60年安保、70年安保と10年おきに日本の危機があって、そこで左翼学生たちが暴れまくってて、世界同時革命の流れで日本に革命を起こそうとする過激な新左翼グループが勢力を拡大する中で、僕たち右派学生は「そうはさせないぞ」と左翼運動をつぶすことが右翼学生の運動の目的だったんですよ。

多川 右翼って、やっぱり受け身なんですね(笑)。だから、鈴木さんがよく言われるように、70年よど号ハイジャック事件、72年の連合赤軍派あさま山荘事件で左翼運動の火が消えたときに、なぜか右翼の運動も終わってしまったというわけなんですね。
鈴木 そう、あの頃学生運動に燃えてた連中も、「終わった終わった」みたいな感じだったね。みんな企業に就職したり、実家に戻って後を継いだり、大学院に進んだりという流れの中で、僕は大学卒業後、1年間は仙台の実家に戻って悶悶とくすぶりながら、その後、縁あって産経新聞社に勤めました。自分の内にはずっと運動を続けたい気持ちはあるものの、そういう運動は5人や10人みたいな少人数では無理だとあきらめていたんですよ。でもよど号事件は9人で事を起こした。そしてその後に三島事件があった。70年3月がよど号で、11月が三島由紀夫の自決。三島事件がなかったら、僕は今も産経新聞にいましたよ。
鈴木邦男
多川 鈴木さんにお会いしたら、そこを聞きたいと思っていました。鈴木さんは著書やインタビューでも、「三島事件がなかったら、一水会を立ち上げることはなかった」と語られています。三島由紀夫という存在、そしてその三島由紀夫と運命を共にした森田必勝さんの存在によって突き動かされたものとは何なのかと。
鈴木 当時の三島由紀夫は、ノーベル賞候補にもその名が上がる全盛期で、日本だけでなく世界が認める人気と才能を誇るスターでしたし、僕ら右翼の学生にとっては憧れの存在でしたから。
多川 吉本隆明は、右の学生たちは読まなかったんですか?
鈴木 敵を知らずして闘えないということで、吉本隆明は僕らもよく読みましたけど、でも、やっぱり三島由紀夫にはそういう論理を超えたところで感じるものすごい輝きがありましたよ。
多川 今でも、というか時が経てば経つほど、輝き冴える三島由紀夫かと。一応、わたしも三島ファンなので(笑)。
鈴木 そう僕らも、三島由紀夫はスターだけど、面白がってみていたところがあった。自衛隊の訓練合宿に参加したり、右翼学生を集めて「楯の会」みたいな私設軍隊をつくったり。でも、僕らは「どうせおもちゃの兵隊だろう」とバカにして笑っていたし。
多川 パフォーマンスが派手というか、何がしたいのか理解不能なところが天才だと思います。

鈴木 そう、そしたら、70年の11月に自決した。政治思想を語る文化教養人はいっぱいいたけれど、自分が言ったこと、書いたことを、その通りやって見せたのは三島由紀夫だけだった。そこがすごい、偉いとひれ伏した。でも、確かに三島由紀夫の死はショックといえばショックだったけど、三島さんは45歳で、自分の人生、やりたいことはすべてやった上での自決だから思い遺すことはないだろう。ところが森田は、そのとき25歳ですから。まだ青春はこれからという若さで、命を捨てて民族派右翼の志を示そうとした彼の精神を何としても遺していかなければ、自分自身が許せないと思った。
多川 個人的なつながりも深かったんですか?

鈴木 森田は早稲田の後輩だったんです。当時、早稲田では右翼民族派の学生が集まって、討論会をしたり最後には殴り合いをしたりしてたんだけど、いつもそういう場にいて熱心に静かに聞いている学生がいた。それが森田だったんです。それで、こいつは俺たち民族派の運動に関心があるのかなと思ってオルグ(勧誘)したんですよ。
多川 つまり、鈴木さんたちがオルグしなければ、森田さんは民族派運動に入ることも、楯の会に入ることも、三島由紀夫と共に死ぬこともなかったんじゃないかと。

鈴木 森田必勝は命をかけて闘ったのに、誘った側の自分たちはみんな70年の安保闘争の終焉と同時に会社に勤めたり、大学院に残ったり、何ごともなかったように生きている。大抵の人間が、普通の社会に戻って普通に自分のことを考えて生活していた。にもかかわらず、森田はずっと国のために何ができるかを考え続け、死んだ。ものすごい罪悪感を感じましたね。俺たちは何をやっているんだ、こんなことをしていていいのかと。産経新聞を退職し、一水会を立ち上げたのも、自分たちが40年運動を続けているのも、森田にやましさを感じているからだと思います。つまり僕の運動の原点は、森田必勝の死です。
多川 鈴木さんは著書の中でも罪悪感ということを書いておられますが、「俺たちだけがこんな平和に豊かに暮らしていいのか」というやましさは、鈴木さんだけではなくて、60年当時学生運動をしていた若者たちに共通してあった思いだったんでしょうか・・・。
赤軍派や連合赤軍の本や映画を見ると、確かに頭でっかちなマルクスかぶれな一面はあったにせよ、純粋に国のために何かしなければならないという切迫した使命感があったような気がするんです。それはきっと彼らが戦後の貧しさを知っていて、親たちとはまったく違う人生を約束された世代として、「自分だけがいい目にあっている」みたいな罪悪感と同時に、だからこそ国のために、人のために何かしなければならない切迫した使命感があったからではないかと・・・。
鈴木 天童荒太の「悼む人」という本を読んで、ああ、俺たちは悼む人だなあと思ったんです。ただ、悼むだけではなくて、罪悪感を感じて、さらに何か俺たちもしなくちゃいけないと。悼むだけでなく、それを行為として実践していくのが運動ですから。
多川 一水会を立ち上げて、その一水会は、学生時代にめざしていたものとは違うんですか?

鈴木 めざすものというより、自分自身が違いますね。学生時代のときは、「左翼のやつらは敵だ。やっつけるしかない」と、それこそ殺すしかないと思い込んでやっていたので視野がものすごく狭かった。でも、そういう中で三島さんが死んで、森田が死んで、その志を継いで我々も闘おうと思ったのが「一水会」の原点ですから、安保にせよ、基地問題にせよ、原発問題にせよ、いろんな主義主張を持つ人たちとどうやって連帯して自分たちの主張を通していくかということを考えざる得ない。今思うと、たとえばアメリカに対する考え方なんて、右も左も結構一緒だったような気がするんですよ。なのにあの頃は左と見れば飛びかかって、殴り合ってたなぁ。
多川 いやでも、政治思想をテーマに殴り合いのケンカができる若者というのは、70年が最後でしょうね(苦笑)。

鈴木 いやぁ、ほんとに昔はよく殴り合ったなあ。ただ、その当時、殴り合った左翼の連中と今でもいろんな討論会や集会で顔を合わせると、お互い懐かしい幼馴染みか同級生に会ったような不思議な感じだよね。それが左翼のリンチみたいに殺し合いをした人たちは、何十年たっても懐かしく会うってことはないだろうし。僕らの時代はまだ素手で「コノヤロー」みたいに取っ組み合って殴り合うような、牧歌的な闘いだったから。
鈴木邦男
撮影/岡崎健志
014 政治活動家 鈴木邦男さん Interview
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すずき・くにお

1943年福島県生まれ。早稲田大学政経学部卒業。在学中から民族派学生運動に参加、全共闘運動とは激しく対立する。生長の家系の「全国学協」の初代委員長に就任。その後、組織の内紛で運動を離れ、産経新聞社に勤務。72年に「一水会」を結成。新右翼として注目される。99年「一水会」代表を辞任、顧問に。幅広い分野の人たちと交流をもち、様々なテーマで執筆活動を続けている。

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