編集部多川 |
千年に1度といわれる大震災を通して、佐野さんは「古代が見えた」とおっしゃられました。それは自然を畏れ、自然を神として敬う日本人の精神性や宗教観にも通じるものですか?
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佐野 |
そうだねぇ、今回の地震で思ったことは、日本人の精神のよりどころとしての天皇制は今上天皇の代で終わりなんじゃないかと。もちろん天皇制は続くよ、日本の統治システムの中でね。
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編集部魚見 |
それは…?
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佐野 |
平成という時代を振り返ってみれば、政治・経済・社会あらゆる面で災厄多い不穏な世の中だよね。平成は今年で23年だけど、阪神大震災、オウム事件、宮崎勤事件、秋葉原事件…、そしてここにきて東日本大震災。それは天皇陛下にはまったく何の責任もない時代の巡り合わせなんだけどね。
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多川 |
古代史までさかのぼると、天災飢饉を払う祈祷の役割がその時代の「王」なんですよね。つまり日本人にとって、天の神と地の我々との間におられるのが「天皇」。
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佐野 |
近代天皇制においてはありえないことだけど、古代天皇制や明治以前の天皇制であれば、平成は縁起が悪いと、おそらく改元されるだろうね。今回の三陸大津波は、元号が変わったときに「平成大津波」と呼ばれるんじゃないかな。
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多川 |
わたしは心の底から美智子さまが大好きなので、そういう話を聞くと悲しくて悲しくてやりきれないです(苦笑)。
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佐野 |
美智子さまは、「祈りの皇室」という近代天皇制にはなくてはならない存在だからね。阪神大震災のとき、天皇陛下と美智子さまが避難所を見舞い被災者に膝まづいて声をかけられるお姿に、我々は衝撃を受けた。昭和天皇も全国巡行で敗戦の苦難に満ちた国民を見舞われたけれど、膝を折るということはなかった。
今回、天皇皇后両陛下が東北の避難所を訪問されるお姿をみて、近代天皇制というのは、都市型の天皇制だったんだなと感じた。これだけ広大無辺のところには、いかに天皇・皇后の祈りといえども通じないのではないかと。自分の見方が間違っているかどうかはいいんだけど、ただこの震災が見せたものとして、ひとつ「日本人と天皇制」があった。
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多川 |
この大震災によって、これまでの日本のシステムの問題点がまざまざと露呈されました。その最たるものが「原発」。わたしたちは、単に元通りに戻す復旧ではなく、この震災を機に新たな日本のしくみ、生き方を考えなくてはならないわけですが、佐野さんは原発エネルギー問題も含め、変わらざる得ないという考えですか?
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佐野 |
原発問題は、深々と慎重に考えた上で発言しないとね。こういう事故が起こると、原発アレルギーみたいな反対意見がどっと噴き出てくる。石原慎太郎が国家危機を煽るのと同じように、市民感情に火をつけるような言説はダメだと思うよ。右でも左でもなく、知性と感性を持って考え、議論できる個人の力が必要だろうね。それがこの国の底力。試されているだよ自分たちは。日本人としての知の力を。
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多川 |
試されている、そんな感じはします。「何をどう考えるべきか」と自分で問いを立てて考える大人の知性が求められていると思います。「どうすればいいの?」「これからどうなるの?」みたいな子供じみた考えから抜け出るには、真っ当な個人意識は必要なんじゃないかと。自分のことは自分で考えるしかないと。それを今は政治家も国民目線とか、下手にすり寄るようなことを言うわけです。はっきり言って自分と同じように目の前の現実に右往左往するような国民目線で、国の舵取りなんかされたらたまったもんじゃない(苦笑)。
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佐野 |
国民目線とかチャレンジとか、わかりやすい言葉や言説に「そうか」と流されるんだよね。でも、そういう言葉は重さがなく薄っぺらいから、すっと抜けて流される。単に消費されちゃうわけだよ。消費されない言説、消費されない人間の存在感がだんだん薄れてきているのは事実だよね。でも、ちゃんと見ていれば、消費されない人間というのはいますよ。見えにくいだけでね。今でも、メディアやマスコミは被災者をも消費していくわけでしょ。
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多川 |
お涙頂戴の美談仕立てのワンパターンに「わたしたちの方が元気をもらいました」のお決まりのコメントで流されていく。
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佐野 |
三陸被災地を取材中、宮古で三代続いた名門網元で“定置網の帝王”の異名を取る漁師に会ったんだ。初代の祖父は「津波が恐ろしくて、漁師が山に逃げては生きていけねえ」と津波がおさまるといつも果敢に海に出ていた。二代目の父親は、60キロの大マグロ7000尾という日本定置網史上最高の漁獲高を上げた男なんだよ。で、その三代目は、地震当日、大きな揺れに驚いて高台の自宅に逃げて助かった。で、その日からずっと酒浸り。おれが会いに行ったときも、朝から酒臭くて、ろれつが回らずフラフラしててね。「おれは1億5千万の船を6艘持ってて、そのうち5艘が波に流された。従業員も1人死んで、もう日本の漁業はおしまいだ」って、「船がねばどうもねんだでば(船がなければどうしようもない)、船あれば、船あれば・・・」って嗚咽して泣くんだよ。男泣きする漁師がいたっていいよ。そりゃ朝から酒を飲みたくなるだろうよ。でも、そういう打ちひしがれた人間の姿はテレビや新聞に出ないよね。
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多川 |
前を向いて立ち上がるストーリーが必要なんじゃないですか。でもそういう境地に辿り着く前に、死んでしまいたいほどの絶望がある。メディアが見せたいのは、ひとり一人の絶望より、みんなの希望。明けない夜はない、上を向いて歩こう!という、あくまでもイメージ。
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佐野 |
おそらく現場の記者の中には、そういう事実をとらえる人間もいると思う。でも、デスクが通さないんだろうね。生きていくのがイヤになるような現実なんか読者や視聴者の共感を得られない、スポンサーのイメージに合わないとかね。そんなこと知ったことか(苦笑)。記者が見て感じたことを伝えれば、いちばん伝わるんだよ。それをわかりやすいイメージや物語で見せようとするから消費されてしまうんだよな。
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多川 |
インスタントなスピード感というか、次から次へ、素早く、わかりやすく情報を詰め込んでいくようなメディア発信のやり方は、ここ10年とくに顕著にひどくなってきたような気がする。
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佐野 |
ひとつにはインターネットによる情報化。もうひとつは金融の問題だろうね。どちらもスピードだよね。そういう目に見えないスピードが、我々を大きく動かしているんだと思う。
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多川 |
その事実、状況、言論をどう受け止め考えるべきか自分に落とし込んでいく時間や身体感覚と、次々とやってくる情報量とスピードとのギャップが激しいですよね、今は。
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佐野 |
そうだよね。地震が起きる少し前まで、週刊ポストで孫正義(ソフトバンク社長)の評伝を連載していたんだよ。紙の書籍から電子書籍へという流れの中でね、自分自身、現代のデジタルネットワーク化に対する一種の疑念があったんだよ。それはまさに身体性の問題であって、養老孟司氏の言葉でいうと、身体を持たない唯脳論の世界。デジタルでも確かに読める。でも、紙の風合いだとか、ページをめくる動作とか、人が身体で感じるものはないんだよな。
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多川 |
本がここにある、存在感ですよね。手触りとか。
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佐野 |
そういう実体感が薄れていく中で、言語の身体性みたいなものもなくなっていくんだろうなあ。そういう意味で、話はまた戻るけど「古代が見えた」というのは、これも通り一遍な表現だけれども、この震災は近代文明に対する批評じゃないかと思えるんだよ。「想定外だった」とかさ、自然に想定内や想定外なんかないんだよ(苦笑)。天に仁なしで、自然というのは、人様のことなんかかまっちゃいないんだよ。無慈悲だよ、神も仏もないのが自然なんだ。それが自然に対する畏れであり、原発に関して言えば、文明に対する謙虚さ。「古代」という響きとともに降りてくるのは、そういう日本人の精神なんじゃないかな。
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