salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

The Odd Family

2014-08-1
男と女を感じる夫婦

「この人達、男と女だなあ」と思わせる夫婦がいる。二人の周りに、単なる信頼とは別の、優しい色合いの空気があるとでも言おうか。別居婚なんかしていると、私がそういう理想の男女関係を維持するために、物理的な距離を保っていると誤解されることがある。確かにそういう夫婦になれたらいいなと憧れてはいる。しかし、前にも書いたとおり、我々の別居婚はなし崩し的に始まって、何となく続いているだけのいい加減なものだ。そこを取り上げて、「別れられないなんて、男と女だなあ!」と強引に言いきることは出来るかもしれないが、冒頭の夫婦像とは8万光年くらい離れる気がする。だって私が言っているのはもっと成熟した大人の男女の話であって、こんなズボラなやっつけ夫婦の話じゃないんだもん。

この手の話をしていると、大抵「要はヤッてるかヤッてないかってことでしょ!」と一刀両断する人が出てくる。もちろん、セックスは一つの要素になりうるが、これはそんな簡単な話じゃない。現に、「男と女だなあ」と「ヤッてそうだなあ」は、似て非なるものだ。私が考えるに、前者にはパートナーへの敬意が感じられるが、後者にそれは感じない。より正確に言うなら、「ヤッてそう…という印象しか与えないカップルの間に、果たして敬意が存在するのか、判断ができない」という感じ。セックスには、根底に男尊女卑やアンバランスな主従関係が隠れているケースが少なくない。だから、歩く合体シーンみたいなカップルにはどうしても警戒してしまう。性的魅力の一点突破なんて清々しいわと感心しつつ、やはりあと一歩、違うアプローチが欲しいと思ってしまうのだ。

ただ、一口に相手への敬意と言っても、解釈の違いは大きい。性というものをどう捉えているか、「自分は女(男)であり、相手は男(女)である」という現実をどのように受け入れ、生きているのか。この問いに対する答え次第で、敬意の意味合いがまるで変わってくる。例えば、先日起きた都議会での女性差別発言。あの事件に対するパートナーの意見で、明暗が分かれた二組の夫婦がいる。一組目は私の同級生Sのケース。二人の子供を持つワーキングマザーのSは、夫と家事育児を分担していて、はたから見ると非常にバランスの良い今時の夫婦である。子供達が寝静まった後、いつものように二人でニュースを見ていたところ、例の報道が始まった。レベルの低い野次に呆れるS。しかし、夫の意見は若干違っていた。「この女性議員、相当なタマらしいぜ。あれじゃ多少言われても仕方ないよ」Sはとっさに反論した。「問題はそこじゃないでしょ。差別がまかり通る議会がまずいって話なんだから」しかし、夫は引かない。「結局、女として美味しいところは満喫してたわけでしょ。だったら、結婚して子供産むところまでやってくれって思うのは自然じゃない?女には女の仕事があるんだからさ」彼女は絶句した。そして、夫について改めて考えた。確かに家事や育児を分担してはいるが、彼は「出来ること」だけしかやらない。ゴミ出しや休日の洗濯はやるが、時間を拘束される保育園への送迎はしない。小学校のPTAや近所付き合いなど、人間関係を伴うものも面倒だからやらない。料理も苦手だからパス。つまり、妻であるSが全てをマネージし、夫でも出来ることを「いくつか渡している」だけなのだ。本当は、ずっと前からそのことに気がついていた。でも、何もしない男性が沢山いる中、むしろうちはラッキーなんだと前向きに考えてきた。しかし、自分だけがキャリアアップを諦め、面倒な地域の人間関係に悩んでいる現実は日に日に重く圧し掛かる。そして、図らずも今回の夫の発言で、彼女は今後この状況が改善することはないと悟ったのだ。「あれで、女性に敬意を払ってるつもりなのよ。女はすごいだの、母は強いだの言ってね」そして呟いた。「女の仕事って何だろ」

二組目は、私の友人Tのケースだ。Tは夫と小学生の子供の3人家族。S夫妻同様共働きで、家事育児を分担している。このニュースについて聞いた時、Tの口から出た言葉は意外なものだった。「最初、私アタマにきたのよ。あの女の人に。だって議員の端くれなら、笑ったり困ったりしてないでガツンと言い返すべきでしょ。まずそこが、プロ失格だと思ったの」しかし、夫の一言ではっとしたという。「そう怒ってたら彼がね、受け流す癖がついてるのかもしれないって言うのよ。差別発言が多すぎて」そして夫はこう続けた。「女性議員の過去や対応力の無さより、差別がまかり通る議会の方が問題だ。だから今はそこに集中して議論すべき。分散すると、全部がうやむやになる」Tは笑って言う。「この件には、珍しく本気で怒ってね。正直、ちょっと惚れ直したわ」私は男女の役割を分けて考えるS夫妻より、フェアであろうとするT夫妻に、より男と女を感じるのはなぜだろうと考えていた。そして、それをTに率直に聞いてみた。すると、彼女は少し考えてからこう答えた。「私達、相手に何かを頼まれた時に『出来ない』って言わないの。難しくても、まずは『やってみる』って言う。今まで深く考えなかったけど、実はお互いの環境に配慮しているのかもね。これって、現代的な男女の愛情なんじゃないかな」

世の中、色々な夫婦がいる。二人の関係が必ずしも男と女である必要はないし、中には老成し、男女を超えた戦友のような夫婦もいるだろう。それはそれで素敵だ。でも、やっぱり私は性というものに自覚的な関係でいたい。そしてその中身は、極力平等で健全なものであって欲しいと思う。私の祖父は、祖母の葬儀の際、喪主挨拶で「彼女は…」と語りだした。92歳、明治生まれの九州男が妻を「彼女」と呼んだことに、私は少なからず驚いた。上手く言えないが、その時の「彼女」という言葉は、何だかとても自立していて美しい響きに聞こえたのだ。家内ではなく、妻でもなく、彼女。私は祖父が、祖母を一人の女性として送り出そうとしているように感じた。そしてその関係性に、強く憧れるのである。身の程知らずかもしれないけれど…。

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熊倉 圭
熊倉 圭

くまくら・けい/ 1973年生まれ。ライター。東京都出身、東京都在住。某外資系企業の人事総務部に所属しながら、こっそり執筆中。好きな作家は新田次郎。好きな監督はファレリー兄弟。「とりあえず」が口癖。胃腸が強い。

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