salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

WHERE IS THE PATH IN THIS TRAIL? 〜わき道へ一歩、逸れた世界〜

2014-12-5
ホームシック・カルチャーショック・言葉の壁は、ロンドンが教えてくれた

空港には、なんとも言えない独特の空気感がある。
だだっ広く高い天井に、すっきりとした開放的な空間。そこに世界中から集まった人々が、普段とは少し違った心持ちで居合わせる。どこの国にも属さない、新たな世界へと人々を導くプラットホームのようだといつも思う。この穏やかでかつ緊張感の漂う空港の特有の雰囲気が、私は好きだ。

しかしこの日の私は、神々しく昇る朝日を車内から眺めながら、かつて感じたことがない複雑な気持ちで空港へと向かっていた。そう、ロンドンへと飛び立つ日がとうとうやって来たのだ。22歳、一世一代の決断。準備はできている、あとは行動するのみ。そう自分に言い聞かせながら、見送りにきてくれた家族や友人との残り少ない貴重な時間を、できるだけ気丈に振る舞いながら大切に過ごした。時間は刻々と流れ、ついに最後の別れを告げるとき、どこかで堪えていた涙が一気に溢れ出した。止まらない涙を拭いながら皆に背を向けて一人でゲートの中へ向かうとき、すでに少したくましくなったような気がした。今振り返ると、この瞬間が私にとっての大きな分岐点であったように思う。

飛行機に乗り込んでからも、涙は一向に止まらなかった。もう後戻りはできない。愛する人たちの顔が次々と頭に浮かんだ。経由地である東京に着くまでの約1時間、自分でも驚くほど泣き続け、東京に着く頃にはすっかり涙が枯れ果てていた。そして成田空港まで見送りに来てくれた関東在住の友人たちと会うときにはもう、清々しい笑顔でちゃんと別れを告げることができた。これまで溜まっていた涙をすべて出し切ることで、スイッチをポチッと押したように心の切り替えが完了したようだった。感情的に涙を流すという人間特有の現象は、時にはとても必要な作用なのかもしれない。おかげで東京ーロンドン間の機内食の案内に一度も気付かないほどロンドンまでの12時間深く眠り続け、目覚めたときにはもうそこはイギリス上空だった。

ここがイギリスか、、海外旅行であれば到着した途端にスキップしたくなるほど心が躍るのだが、これからこの土地で住むとなると、辺りを観察する視点も心持ちもまったく違ってくる。イギリスという国に関してさほど下調べもしていなかったので、巨大なヒースロー空港やロンドンの古い町並みはとても新鮮に写った。だがその日の夜、ホームステイ先の小さな部屋で一人っきりになったとき、突然あてどない孤独感が襲ってきた。本当に一人で遠くまで来てしまったんだと強く実感し、これから2年間この国で暮らしていくのかと思うと、色んな不安と寂しさに押しつぶされそうになった。
これが、人生で初めて体感したホームシックだった。

しかし感傷に浸っている暇など実際はなく、翌日からやるべきことは山ほどあった。シェアハウス探し、銀行口座の開設、仕事探し。。何をするにも、言葉の壁が付きまとう。バスに乗るにも、サンドウィッチを買うにも、英語というだけで母国語の数倍頭と気を使った。だがそんな片言英語の私でも、なぜか自分が“外国人”であることをここロンドンでは感じなかった。その理由は、初めてロンドン中心街へ出たときに明らかになる。街にはターバンを巻いたインド系の人、全身を黒い布で覆ったイスラム系の人、肌の黒い人、白い人、本当に様々な人で溢れていた。これが多国籍国家というものか!と圧倒され、カルチャーショックを経験した。宗教もバックグラウンドもまったく違う人々がそれぞれのスタイルを尊重しながらも、イギリスの文化に上手く調和しているように感じた。

ロンドンで生活を続けていて後々分かったのが、家系のルーツがたとえ世界中の何処であっても、イギリスで生まれたら一人のイギリス人として差別を受けずにイギリス社会に自然に溶け込んでいるということだった。見た目が完全にアジア人やアフリカ人でも、中身や振る舞いは立派なイギリス人なのだ。だからといって、彼らは彼らのルーツである土地を忘れるわけではなく、イギリスと母国の両方の社会を客観的に捉え、誇りに思っている人が多い。少なくとも、私が出会った友人たちはそういった幅広い視野を持っていた。日本人として日本人に囲まれて育った私にとって、この文化は私をとても不思議な感覚にさせた。特にイギリスは、伝統的に旧植民地から移民を寛容に受け入れていたため、この移民文化の歴史は深い。そして今でも世界中から年間数十万人に及ぶ移民を受け入れており、不法滞在などの様々な問題はありつつも、サッカーのイングランド代表選手が多国籍であるように、彼らはこれからのイギリス社会をも形成していく新たな担い手となっていくのではないか、と私は思っている。

少し話しは逸れたが、こういった国と国との線引きを強く意識させないロンドンから学ぶことや、新たな発見は沢山あった。しかし、このような独自の文化をより深く知るためには、どれだけその土地の言語を自分のものに出来るかが重要な鍵となってくる。言葉が通じなくても何とかなるということもあるが、それには限界があるものだ。とにかく英語を話せるようにならなければ、と日々思い、強い焦りを感じた。

とは言っても、そう簡単に英語の耳になるわけでも、英文が口からすらすらと出るわけでもない。語学学校では他国の生徒たちに日々圧倒され、隣の席のフランス人の女の子に「 I don’t understand what you are saying. ( 何言ってるのか意味わからない )」と言われた日には、マンガのように肩を落として家路についた。今思えば、傷つく必要もなにもない一般的な言い回しなのだが、その頃は自己主張をはっきりとする欧米の文化に慣れず、自分の気の小ささを痛感する毎日だった。“言葉の壁”というものは、私の予想を遥かに超える高さだった。

この時から6年経った今ですら、ネイティブのように完璧な英語を話せるわけではないが、毎日英語だけで生活していてもそれほどストレスを感じなくなった今と片言英語だった6年前とでは、大きく変わったことがある。それは世界に対する価値観だ。ロンドン在住のオーストラリア人の友人に、「オーストラリアに住むことと、ロンドンで住むことの違いは何?」と尋ねたら、「うーん、どこに住んでいても同じじゃない?」と彼は答えた。戦地に立つような決意で日本を旅立った私にとって、その答えを当時理解することができなかった。だけど、今ならその意味が分かる気がする。世界中のどこにいても私は私であり、どんな土地に住むとしても自分の生きたいスタイルは変わらないからだ。こういった考えに辿り着くには、どうしても言葉の壁を乗り越えることが必要だった。

ホームシック、カルチャーショック、言葉の壁に直面させてくれたロンドンには、深い思い入れがある。このロンドンで過ごした3年間がなければ、今いる南アフリカに来ることもなかっただろう。

予期できないわくわくする旅は、まだまだ続く。

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Mayu Rowe
Mayu Rowe

ロウ 麻友 / 旅するデザイン・ライター。1986年生まれ、大阪出身。20歳でインテリアデザイナーとして社会に出た後、活動の場を広げるため渡英。そこで現在の夫と出会い、一歩踏み込んだ旅へと魅了されていく。彼と共にヒマラヤ登山、日本ヒッチハイク縦断などの旅を終えたのち、南アフリカへ移住。しかし2015年春、南アフリカ生活にピリオドを打ち、自転車でアフリカ大陸縦断の旅へ出る。

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