salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

やすらかに生きたい

2016-08-5
フレッシュさと成熟の共存

季節の移り変わりって、こんなにくっきりしていただろうか。ある日を境に夏がきてて、夏至をすぎたらまたちゃんと空気が変わり、ふとした場面に早くも夏の終わりを想像させられる。きっとトシのせいでもあるんだろう。年齢を重ねて、季節の繰り返しの経験のストックが豊かになり、ちょっとした空気の違いといった刺激から引き出される記憶の選択肢が増えているし、さらにその中からどれを選別するかのスピードも早くなってきている。ただ、それらにとらわれると、同じことの繰り返しの世界になり、安定というと聞こえはいいが変化のない毎日でつまらなくもなるんだけど。

季節が進むのをわかりやすく教えてくれるものといえば食べもの、そして若い人々の服装だ。年代問わず流行りすたりはあるけれど、若い人のは食べものと同じように旬の「はしり」、「さかり」、「なごり」の濃淡がはっきりしていて見てとりやすい。たとえば夏だと、セールの影響もあるのか7月にはいる頃、その夏の旬の服装がピークを迎えるようで、そんないでたちをたくさん見かけるようになったら、もう夏の終わりが始まったのだ。こないだまでは、旬の「走り」の勢いでとても魅力的に見えていたあの服この組み合わせが、夏至を過ぎ、お盆休みを超えながら、みずみずしさがなくなって、はかなくもしぼんでいく。そういえば、ファッションには、食べものでいうところの「なごりもの」のような、ピークを超えたあとの成熟をめでるような楽しみ方はなさそうだ。非情な世界だ。いや、私が成熟していないから見えないだけで、違う世界があるのだろう。見てみたい、すべてのものにフレッシュさと成熟が共存する世界を。

さて、フレッシュといえば、ここでコラムなるものを書くチャンスをいただいてもうじき1年になるのだが、相変わらずフレッシュさが抜けない。飽きっぽいわたしにとって、これは本当にありがたいことだ。が、ありがたいといっても、決してハッピーなわけではなく、作文のつたなさをどうにかしたいと思っている。こないだ、筆が進まず、ネット検索していたところ、「小田嶋隆コラム道」なる連載に目が止まった。あっさりと自分のことが言い当てられていた。
「ある時期に執筆のエンジンになっていた『自分を認めない世間への怨念』も、時の経過とともに摩滅していく。というよりも、世間への怨念みたいなものを燃やし続けることのできる書き手がいたのだとしたら、おそらく、彼はその怨念によって身を滅ぼすことになる。」(小田嶋隆「小田嶋隆のコラム道 第五回モチベーションこそ才能なり」)。

このコラムの第一回を書き終わった直後からわたしはやすらかになってしまって、燃やすものの在庫が薄くなり、すごく困っているのだ。ただ、わたしの場合、ひとさまに見せられるレベルの怨念みたいなものが磨滅したってだけで、それ以上の深いものはまだ残っているような気がする。ここに書くほどの度胸がないから書かないだけなんじゃないだろうか。そして、それにより身を滅ぼすかどうかの瀬戸際にあるのでは、、、?もしもそうなら、せっかくだからその深い怨念をなにかに活かしたいところなのだが、そのあてがなかなか見つけられない。全容が、活かし方が、見えない。見えたときは、その深みが怨念とは違う様相に変貌をとげるときなのだろうと思う。あ、そのプロセスもまた、成熟というものなのかもしれない。そうか、そのときを待とう。深い怨念のもつ可能性のきらめきを眺めていよう。

過去、現在、未来。絶望の記憶と希望のかおり。いくつもの移ろい、はかなさの妙。ことしの夏はそんな感じみたいだ。
今日のBGMは「夏の扉」(作詞:三浦徳子、作曲:財津和夫)でお送りしました。フレッシュ、フレッシュ、フレーーーッシュ、夏の扉をあけて。

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関口けりー
関口けりー

せきぐち・けりー/群馬県出身。会社員。金融機関、外資系メーカー、教育機関で働いてみて、会社員生活もそろそろ折り返し、さて、これからはどうしようかなとのんきに考え中。好きなものは踊り、温泉、早起き、手作りごはん。嫌いなものは期限、人ごみ、テンション高い人。将来の夢は海外と日本の半々暮らし。ちゃんとした人に見せること、とてもナチュラルで感じの良い笑顔が得意。ものごころついたときから、我、一縷のかたい絶望と共にあり。ほんのりパンク味。

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