2015-09-5
ゴーギャンならタヒチへ向かった
「なにか言いたいことがあるんじゃないかと思って。」と、編集長がさわやかにsalitoteにさそってくださったのは7月末。自分の存在を気にとめてもらっていただけでもうれしかったのに、その上、以前から読んでいたあれに参加できるなんて。そりゃあびっくりして、「書いてみたい!」と飛びついたのです。が、しかし。素人がひとさまにお見せする文を書くって、なかなか大変なものですね。
わたしが言いたいことってなんだろうか。あらためて考えてみたらたちまちフリーズしたので、ここはひとつつれづれに、天からいただいたこのスペースを遠慮なく「はーい、わたしです、わたし!わたし、ここにいますー!」と叫ぶ場所として使わせていただこうと思います。わたしの、わたしのための魂の叫び。蚊の鳴くような叫びかもしれませんが、それを文字にしてまいります。よろしくお願いします。
さて、さっそくですが、わたしはいま、人生に「中年クライシス」をお迎えしています。ゴーギャンをタヒチへと旅立だせたあの中年クライシスが、凡庸な一般人のもとにもやってきてくれました。気づけばここ数年、わたしは、サラリーマンの仕事に飽き、満員電車に飽き、それらに飽きている自分にすらも飽きていながらなお、同じ場所にとどまり、立ち尽くして、過ごしているのです。
サラリーマン生活も20年近くなると、自分の得意なやり方ができて、ちょっと手を伸ばしたところにあるような仕事なら、時間をかければおおよその形にはできるようになりますよね。ようやく達成感が楽しめるようになったころから、不思議なもので、すっかりおもしろみがなくなってきちゃった。慣れ親しんだやり方、自分の得意なところの出し方、褒められ方、自信の失い方から立ち直り方まで、なんだかほとほと飽きちゃった。新しいことしたい。見たことない景色を見てみたい。そんな思いがアタマやココロを活発にぐるぐるするようになりました。
居場所を見つけたぐるぐるは、いまやちょーイキイキと精力的に、例えばこんなふう。
『これまでの私は、いったいなにに照準を合わせて動いてきたんだろうか。なぜ、あんなにも周りに合わせて、空気を読み読み、期待に報いたいと頑張ったんだろうか。がんばっただけの成果はあがり、評価もされたのに、こんなにむなしいのは、なぜ?空っぽな感じ。がんばったら、評価されたら、ハッピーに満たされるのかと思ってた。そうでないのなら、頑張ることになんの意味があるのだろう。これから、どこに向かって、なんのために頑張ればいいのだろう。
あれ、そういえば私、将来の夢とかなりたい職業とか、ずっとなかったよな。具体的な夢を持っている人がうらやましくて、情熱的に夢を追うのが正しい若者のあり方だと思ってあこがれてた。でも、夢なんて見つからないまま、偏差値教育によく訓練され、しいていうなら、なんとかして平均以上であること、周囲から浮かないことを目指して、そんなことのためだけにがんばってきたんじゃないか?なんて小さいんだろう。
自分の小ささはわかった。及第点を目指す自分にゲンナリしつくしたのもわかった。じゃあさ、それはそれとして、ほんとにしたいことって、なんなの?いや、ちょっと待ってよ、急にそんなこと聞くなんて、ずるくない?だいたい、そんなん、教えてもらってないし。教えてないとこテストに出すみたいな。あ、あった、結婚だ。結婚はしたい。親だってよろこんでくれるはず、安心させてあげたいもん。みんなもしてる、上手なひとは複数回。1回くらい、わたしにもさせてくれたってよくない?なにがいけないんだろ。
すべからく恋愛に失敗してきたもんなあ、結婚なんて、ハードル高いの当然か。恋愛からがんばらなきゃ、て、おい、相手!はー、どこへ行ったら会えるんだろ。あ、出ました、「どこへ?」。
つか、わたし、きてるなー。もう9月じゃん、誕生日がきちゃうじゃん!また歳をとる、こわい、こわいわー。完全に折り返したよね。わたしはどこへ流れ着いてしまうのだろうか?このまま人生は閉じていってしまうのだろうか?こんな人生でほんとうにいいの?せっかくいただいたこの命、燃やし尽くさなくていいわけ?こわいー、もうやだー、帰りたいよー、でもどこへ?あ、でました、「どこへ?」』
ざっとこんな感じでしょうか。こんな独り語りを、そうだなあ、一日最低でも4〜5回はアタマのなかで繰り返しているだろうと思います。
このぐるぐるをなんとかしたくて、心理学系、自己啓発系、スピリチュアル系などをさぐったところ、これは自分を見つめなおす良いチャンスということらしいです。これを好機ととらえ、自分をぐるぐるさせる思考、感情、行動パターンなど、もはや不要となったそれらを手放すべし、などという話になっていきました。
よしきた!と言いたいところですが、えーと、手放す?なんだそれ?いざやろうとすると、なんともとらえどころのない行為で。自分を客観的に見つめなおすことだってままならないのに、手放すってなに?どうしたら、手から離れてくれるのか。
結局、それに執着しちゃって、「手放す」を手放したいのに手放せない状況に。八方塞がりまして、さらに追い詰められるの巻。なんど巻くのだろう、何周めぐるのだろう。かみさま、わたしに最後の第四コーナーをください。。。
こうして、わたしは今日も立ち尽くしています、新しい地平線を夢見て、ここに。中年クライシスと手に手をとりあい、足首にはハチマキをくくりつけて二人三脚で。いろんな雨にふられています。いろんな風に吹かれています。
今日の脳内BGMは「椰子の実」でお送りしました。では、また。
『名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ』
(「椰子の実」1936年 作詞:島崎藤村、作曲:大中寅二)
2件のコメント
はじめまして。文章を拝読し、新鮮な地平を感じました。やすらかな心地よさにひたりました。内容はそうでもないのに、忘れていた日曜日の朝のようです。連載開始のお祝い?になるかわかりませんが、ゴーギャンが家を捨てタヒチに旅立った当初の手紙の一部をご紹介します。わたしは彼の計画的な刹那主義が好きです。なにかのご参考に資するところがあれば幸いです。「お前は、将来の見通しがあまり明るくないと云う。私だって、立場はお前と同じだ。しかし私は違う。私はその日のことだけしか考えないことに慣れている。人生は、いつも人が信じたり望んだりするものの反対ではないだろうか? 消極的に(積極的にではなく)明日のことを思いわずらったところで何になろう。現在を忘れてしまうだけじゃないか。毎日私は、自分に言ってきかせる。さあ今日も一日得をしたぞ。自分の義務を果たしたかな? じゃあ寝るとしよう。明日は多分死ぬだろうと」
ENさま、ようやくこの光栄な状況を我がこととして受け入れることができ、レスできる気持ちになりました。4か月かかりました。たいへん遅くなりましたが、あたかかいお祝いのコメント、本当にうれしいです!励まされました!ありがとうございます!ゴーギャンの手紙のことばは、あんまりかっこよくてどうしようかとうろたえましたが、辛うじて「消極的に明日を思いわずらったところでなんになろう」というところ、うんうん、と思いました。今日一日を生きただけで十分に義務を果たしたぜ!と思い、眠りにつくこのごろです。
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