salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

悩む人

2018-08-5
結局、ありがとうが欲しい。

人への親切が過剰になってしまうことに、名前はないのか。…あるよね、それはお節介。

身近なところに、親切にする気になれなくなった友人がいる。どうしてなのかなあとしばらく考えていた。良かれと思ってやったことを、いらないと言われることが重なったからだろうか。淡々とした人だから、喜んでいるのかどうか分からないのも大きいかもしれない。間違いを指摘した時に、自分はこれでいいの。と言われ、げんなりしたのも理由の一つだ。とうとう「わたしがやっていることはお節介なのだな…。」と理解し、意識的に気を使うことを辞めた。

しかし、それはそれでなかなか難しいことで、例えば遠方に出かけたとき。私が車で動いている際に、近くの駅までの足がない彼女を送ってあげないことなどは、小さく自分を傷付ける。ちょっと意地悪をしているような気にさえなる。あるいは食べているお菓子を分けてあげるとか、目の前のグラスが空いたからお茶のお代わりを聞くとか。ほんの少しの親切が出来ない自分って、器が小さいなあと思ってしまう。極端すぎる行動は、子どもじみているとも思う。

ああでも、本当に放っておかれたいと思っているかもしれない。親切だと思っているのはわたしだけ、「気がきくな。」と思ってもらいたいだけであれば、自己満足でしかない。これが接客業ならば、店員失格?相手が求めていることを見極め、行動しなければいけないはずなのに、丁度良い、が難しい。

「身近」というところも、ポイントなのだ。他人には、そこまでの期待をしないかもしれない。街中で前を行く人の落し物を拾ってさっと届けたところ「あ、どうも。」とキョトンとされるとする。とっさに礼がなかったとしても、結構納得がいく気がする。

つまりわたしは、「ありがとう」と言われたいから、あれこれしている!人の役に立ちたい気持ちと、感謝されたいという気持ちは似ているようで違うのに。

そんなことを考えながら過ごしていたら、書店で「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと。」という本を見つけた。文化人類学を専門にされる奥野克己さんの著書だ。奥野さんが長期滞在されたボルネオ島の狩猟採集民「プナン」には、ありがとうやごめんなさいの言葉はもちろん、概念さえもないと言う。目から鱗だ。

日本だとどうだろう。もしどこかで小さな子に何かしてあげるとする。こちらは見返りを求めていなくとも、近くに親御さんがいれば「ほら、◯◯ちゃん、ありがとうは?」と促す。幼稚園や小学校でもそうではなかっただろうか。生まれ持った本能ではない、後天的に「感謝を言葉で表す」ことを植え付けられる。わたしは、ありがとうと言われることにどっぷり慣れてしまっている。

そこでわたしは、無理して親切にするのは辞め、何かしたときは「(大袈裟に)ありがとうって言って!」と、スマートじゃない要求をすることに決めた。偏っているとは思う。でもしばらくはこの態勢で実験を続ける。自分の気持ち良さを優先するのだ。

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疋田 千里
疋田 千里

ひきた・ちさと/1977年京都府生まれ 現在東京都在住。高校・大学と写真部。カメラマンアシスタントを経て2003年よりフリーランス。クライアントワークスとしてのポートレイトや料理撮影に加え、日常や旅先の光景を写真に残す。

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