salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

悩む人

2018-02-5
ねばならない。

「ねばならない。」と自分で自分に課しているルールがものすごく多い。教育されてきたことももちろんあるけれど、一番近くにいた両親は強制する人たちではなかったから、見て読んで聞いて経験して、こうした方が良いと判断してきた(流された、とも言う)。

根本的には「真面目」なのだと思う。それに社会は「普通」が生きやすい仕組みになっていて、優等生は更に優遇される。ルールに沿ってはみ出さぬよう蹟かぬよう気をつければ、遠回りせず要領良く生きられるのだ。

もちろん途中でそれなりの挫折はあった。生まれた時に持っていた根拠のない自信を、少しずつ少しずつ失いながら歩いてきた気はする。小さなこと。例えば幼稚園で、嫌がることをしてくる子がいたとか。言いたくないことを言わされたとか。小学校で、やりたかった役に就けなかったとか。一緒に帰る友だちがいなかったとか。中学校で、変なあだ名で呼んでくる男子がいたとか。行きたかった学校に入れなかったとか。高校で、恋が叶わなかったとか。仲の良かった女子に無視されるようになったとか。大学で、交換留学生に選ばれなかったとか。自分より高く飛べる人を知ったとか。要領は良いけれど、自分が思い描いた通りではもちろんない。

いったい人は、途中で失った自信を何かでまた取り戻しながら大人になっていくのだろうか。傷ついたことを小さなことよと忘れて生きていくのだろうか。降り積もった出来事が、足を竦ませたりしないのだろうか。

わたしは一度、ルールを見直し、情報も遮断した方が良いかもなあと最近は思っている。情報弱者、そんな言葉もある。けれど、一歩外に出るとたくさんの価値観が渦巻いていて、本当に自分がしたいこと、行きたい場所、生きたい道が見えなくなるのだ。

仕事では、外資系の女性誌が企画する華やかなイベントで美しい女性たちを撮ることもあれば、大国と大国の争いの狭間で傷付く市民を援護する団体を取材することも、国民が愛する俳優を撮ることも、地域社会で生まれる芽や種を目撃することも、舞台で飛び跳ねる子どもたちを撮ることもある。子育て中の家庭で楽な気持ちで作ってもらいたい料理レシピを撮影することも、フレンチのシェフに教わるおもてなし料理を撮ることもある。そしてその都度たくさんの想いを受け取り、感激し、影響される。

このままたくさんの物事に触れ、学び続けたい気持ちはある。一つの価値観に縛られたくはないのだ。だけど、自分の核心がどこにあるのか、何が譲れないことなのか。閉じ籠って深く内省したい気持ちも年々強くなっている。

子どもが出来たら、自ずとそんな「自分探し」をする時間が減ると思っていた。きっと自分でコントロール出来る時間が激減するから。嫌でも早く起きないといけないだろうし、ごはんを作らないといけない、新しい人間関係を築かないといけない、育てないといけない、見守らないといけない、仕事を選ばないといけない…。あるいは、目の前にあからさまに大切なものが現れるのだから、思考回路がシンプルになるのではないかとの夢を抱いたり。

結局わたしは「ねばならない。」がある方が安心なのだが、どうも子どもは授からない。ならば「ねばならない。」を一つ一つ取り払い、自分で自分を育て直してみるのはどうだろうか。新年という区切りは非常に都合が良かった。朝起きるのを辞めてみる。パソコンに向かわない。メールにすぐに返信しない。電話に出ない。人に会いに行かない。新しい出会いを望まない。恒例行事を止める。写真を撮らない。作品を発表しない。

しかしこれでは社会に適合出来ないし、仕事にならない。だが仕事をする必要はあるけれど(そして仕事が好きだけど)、このままのペースで続けて良いとも思えない。

今年は自分の心と身体に向き合う。「ねばならない。」の呪縛を解き、「やりたい。」という声に耳をすませる。

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疋田 千里
疋田 千里

ひきた・ちさと/1977年京都府生まれ 現在東京都在住。高校・大学と写真部。カメラマンアシスタントを経て2003年よりフリーランス。クライアントワークスとしてのポートレイトや料理撮影に加え、日常や旅先の光景を写真に残す。

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