salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

平気で手を離してまた会いたい

2011-06-26
羽黒_02

前回の「羽黒」の続きです。

子どもたちはいい加減、魔除けの馬の尻尾を気味悪がったり2階の大広間(宿坊に泊まりに来た人がそこにみんな並んで寝るところ)ででんぐり返ししたり走り回ったりするのにも飽きてくる。
長いこと待たされて、やっと夕飯のごちそうの時間になる。確か19時前。

子どもの頃は子どもなので手伝ったりする必要は無かったのだが、大きくなってくるとお母さんに「あんたちょっと台所手伝ってきなさい」と言われ、慣れなくてヤだけど暇だからまあいいか…という感じで、広い台所に挨拶がてら行ってみる。台所というかちょっとした厨房くらいの広さがあって、これから次々と、順繰りに出す料理が配膳台に並び始めている。
おばさんは必ず「大きくなったこと!!」と驚いてくれて、私も必ず「エヘヘ…」という件りがある。段々お母さんに似てきて、と言われると、お母さんは美人なので嬉しかった。それから大して手伝いにもなってないんだけど、一応「手伝い」ということで我が家の顔を立てる為にも、料理を宴会の部屋に運んで行く。最初は漬け物やらだだちゃ豆やらとそのから入れ。漬け物は「民田なす」というなすで、ころっとしていて凄く可愛い。漬けるときにそうなるんだか、はたまたなすってそういうものなのか、噛むと果肉がぴりっとして、そこがいい。

だだちゃ豆も、多分どこの家でも夏は必ず食べるもので、お茶請け的存在で出てくる。東京に来て初めて、東京生まれ東京育ちの大人に「あれ人によったら臭いって言って、苦手なひとも居るんだよ」と教えて貰ったことがあって、とても侮辱された気になった。美味しいっつうの。子どもの頃の夏は、お盆までは庄内浜(行きつけは油戸だった)で海水浴ができるので、よく連れて行って貰った。私が小児性アトピーだったのもあってか、熱心に連れて行って貰った。おかげで今は影も形も無い。ある年にたまたまお盆の日に強行突破で海水浴に行ったことがあったが、それまで知識として「お盆過ぎたらくらげが出て刺される」と教わって知っていたけど、本当に刺されてびっくりした。前回までは刺されなかったのに、なんて不思議なんだろうと思った。いまはだいぶ暖かくなってしまって、庄内浜でも鰆が採れる様になったらしい。くらげはどうなんだろう。
その海水浴の帰りに、道中か近所を通りすがるだだちゃ豆売りのトラックで、枝に成っているだだちゃ豆を買ってきて、子どものお手伝いとして裏口で弟と豆をもいだ。ざるに入れてお母さんに渡して、お母さんはたくさんのだだちゃ豆を茹でる。私はだだちゃ豆が大好きで大好きで、もう食べるなと言われるくらいハイペースで毎夏食べていた。東京で出てくるだだちゃ豆はなんだかべちゃべちゃしていて、「違うの!こんなんじゃないのよ、これがだだちゃ豆とは思ってくれるな」と言い訳をしたくなるくらい不味い。本当に不味い。何度も悪びれずに言うが、どこでも何でも不味い。その点、もぎたて茹でたて(いい匂いがしてくるので私は嗅ぎ付け、出来上がりチョイ前に待機している)は凄い。よくとうもろこしと一緒に茹で、塩をかけて竹ざるに盛って出してくれていた。私もお母さんになったら枝豆を茹でるんだろうなあなんて思っていた。全然、1mmも成れてないけど。

羽黒でそうやって酒盛スタートするかしないかのタイミングで出される漬け物とだだちゃ豆は、いまなら判るがお通しなんだろう。そこで必ず「あら今年もうまく茹でて」「今年は豆の味が落ちて」「そういえばこないだ貰ったあれ美味しかった」のような季節の美味しいものについて、女性陣は盛り上がる。席順はだいたい決まっており、神様スペース(確か太鼓とか神棚とかが置いてある)が上座で、一家の長から歳の降順でテーブルに座る。その次に女性陣で、この辺りは適当のような気がする。一家の長はもっと呑めとばかりに酒をつぎに来る。私たち姉弟が成人したら、先代は面白がってすいすいとつぎに来てくれた。これは応戦!と「有り難うございます」なんて呑んだりつぎ返したりしていたら隣に座っているお母さんに、そんなに呑んで恥ずかしいからやめろと言われた。そうだった、こういう場ではご挨拶程度が美しいのだった。バンバン呑んでいいのは男性陣だけ。みんな一族の血なのか、きれいに茹で上がったような顔をしてワイワイしている。下戸のおじさんも中には居るが、そのひとですら何だかヨッパライのように見える。子どもの頃は「会のホストが取るべき行動」なんて全く気にもとめていなかったけど、それを抜きにしても、一家の長はいつでも会話と場の空気の中心に居たので、子どもなりに「このおじさんがこの家でいちばん偉いひと」という認識はあった。とても面白いおじさんで、兄弟もおばあちゃんのように嫁いできたひとも皆おじさんを慕っていた。多分次男(長の兄か?否、弟?)は大阪に住んでいて、毎夏は来れない。特に最近はトシなのもあり、お盆にそこで会うことはほぼなくなってしまったのだが、その宴会の最中、皆揃ってできあがっている時間を狙って電話を掛けて来る。まずは一家の長から始まり、電話に出れるひとは代わる代わるその電話に出に席を立つ。ご指名を受けたり、「じゃあ次、ほれ」のように適当に代わったりする。

そんな先代は一昨年に亡くなってしまったので、いまはその息子さんが継いでいる。まだ若いけどやはり面白い兄さんと言った風情で、可笑しい素質が充分にぷんぷんしており、そんな意味でも立派に後を継いで行くんだろう。いまはまだ、子どもの頃からの刷り込みの記憶があるので、また夏に羽黒に行ったら先代が「よう」とランニング姿でヒョッコリ玄関に出迎えてくれそうな感じがするが、そのうち何年か経てば、羽黒と言えば現家長を自然に思い浮かべるようになるんだろう。宴会の場である座敷には、先代の山伏装束の写真が飾ってある。大晦日に羽黒山で開かれる松例祭のときのものだろう、先代が凛々しくいきいきと写っている写真も、その前の代も、死んだおじいちゃんの写真も、もっと前の代の長の写真も、みな並んで飾られている。

料理は、お通しの次に煮物と魚が出て来る。いつも、かれいやますを出してくれる。最近は厨房にそこの家の長女のひとも入るので、ラインナップの中にイマドキの品がすこし入る。その次がごま豆腐で、あと確かぬたとか何とかを2品くらい挟み、いよいよ心待ちにしていたシメのあんころ餅タイム!お汁粉で、こしあんに普通のお餅が入っている。姉弟で「羽黒といえばあんころ餅」と口を揃えて言うくらい、お盆名物である。お母さんも、子どもの頃凄く楽しみにしていたと言っていた。あん餅の他にお雑煮もあって、どっちも食べたいけどこのくらいになってくるとお腹がいっぱいで、よくお母さんとシェアする。
網戸が無いので、よく宴会中にアブやらブヨが乱入してくる。よくいままで刺されないで来たものだが、そういえば刺される前に「ホレ!」とおばさんか誰かがすぐさまうちわで退治してくれるからだろう。おばさんたちは皆仲がよくて、よく子どもの頃の話も織り交ぜる。今よりもずっと田んぼが多くて、牛も居て、あるとき旅芸人か露店か何かを見に行ったとき、感嘆の声を「キャー」と上げたら後に居た牛がおばさんの声にあんまりびっくりして脳しんとうを起こしてひっくり返って倒れたとか。庄内名物の吹雪がひどくて、何時間も歩いて帰って死ぬかと思ったとか。おばあちゃんが子どもの頃は、その広い田んぼの真ん中でホワイトアウトで死ぬひとも毎年居たとか。雪がひどい年は、いまでは信じられないし見たことも無いが、二階から入ったこともあるとか。話は自分の家の庭の話やそういう昔話を行ったり来たりしながら、とにかくずっと笑って喋っている。

そんな風にして宴会は過ぎ、基本的に直系のおじさんたちは最後まで呑んでいる。そのままもう面倒になって泊まって行ったりしている。だいたい奥さんが呑まずに居るので、帰りの心配は無い。我が家はお父さんが「じゃあこの辺で」と言ったらそれが引き際、みんなで帰路に着く。我が家もご多分に漏れず、帰りはお母さんの運転。

インディアンの写真集を見て羽黒を思い出したところから始まったこのお話だが、そうは言っても二者を繋げようとはそんなに思っておらずに、ただ素直に書いてみた(あんまり歓迎される原稿の書き方ではないとは思うのですが………)。ホラここが!ホラこれも!と共通点を暴きながらでも良かったのかもしれない。が、そんな風に思い出して書いてみて結果的に、ああ、だから想起したのね、と自分で思った。

ここで再度。
着飾っているひとも、裸のひとも、彼等はみなとても静かに、誇らしげに写真のなかに在る。表情はすっとしていて、男は強く、女はやさしく、こどもはこどもの顔をしている。

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trapeze
trapeze

1983年生。グラフィックデザイナー、イラストレーター。iPhoneとiBookを所持している以外は滅法旧弊。これといって趣味は無く、強いて言うなら…読書…なのかしら…今年の目標は「自信」「リラックス」「素直」の三本立です。

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