2011-03-6
安定を捨ててまで求めるもの
安定という言葉。
そのうち死語になる言葉かもしれない。
私はフリーの人間、つまりどこの会社にも所属していない個人事業主。
なぜフリーになったのか?
フリーになりたいからフリーになるのではない。
自分には大切にしている“感覚”があり、その“感覚”=“生きる”ということ。
その感覚を守るためには、組織に居ることが不都合だったというだけ。
様々な占いのベースとなっている易という考えから読むとこの感覚が“核”ということかもしれない。
◆自分がされたくない、これが危うくなると頭がおかしくなるもの。
◆自分がしたい、これを考えるだけでオカズが要らず、ご飯が食べられるもの。
こういった視点で考えると考えやすい。
これを守るために努力し、苦労し、我慢する。場合によっては安定を捨てるということもする。
単に耐えるのではなく、自由を確保するために耐える。でも自由の為だから苦労とは感じない。
自由=楽ではない。
この核が明らかであればあるほど、判断に間違うことは少なくなる。というよりは、苦労はしても後悔はしにくくなるということ。
この核が不透明であればあるほど、後悔しやすい。
20世紀は、何となく社会がこの核を示し、常識を作り、人もそれにならっていれば何となく生きてこれたようなイメージ。今は社会が示す核がほとんど崩壊しているに等しい。というよりも実態に矛盾が生じている。
ということは、自分自身の核を持たないと厳しい。
でも昔ほど厳しくない。
昔は少しでも自分だけの核を見せようものなら、袋叩きされることも多々あったが、最近は驚くほど寛容になっているような気がする。
本当の意味で個性の時代なのかもしれない。
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