読後の一服ノートスピリチュアルを神聖なるものとして愛する方には申し訳ないが、自分が思ってしまったことなので率直に書かしていただく。 たとえば、生命エネルギーを高める、エネルギーの交感というスピリチュアルならではの思考をつきつめると、それは「性」の解放に行き着く(はずである)。 「スピリチュアル」には、丸裸の魂を丸抱えに愛され・愛したい人間の欲望を誘発し、誘惑する幻想的かつ鮮烈な世界観、人の心を包み込むように懐柔し誘導する言葉がある。 わたしは、究極、女の「性」の部分だけに集中して突き詰めるとなると「堕ちてゆく私・・・」になるよりほか道がないような気がする。だから「そうなったら、どうなるんやろ・・・」の想像だけ後生大事に「ま、ええか」と、それなりにまかなうことが女性の現実的な「性」の使い道だと思う。 人生も世の中も自分自身もすべて嫌になって、やけくそで身を投げ打ったり、やけっぱちでどうにかなるようなことはまずない真面目で思慮深い女性、純粋に人と向き合い、愛し合いたいロマンティックな憧れや願望のある女性は、とかくそういう部分を「視えないもの」にしてしまう帰来がある。意識せずともそうしてしまう無意識のレベルで。 そんなわけでわたしは、スピリチュアルの奥秘に蠢く性なるものにおいを嗅ぎ取らずにいられない。性という表現が心外であれば、エロティシズムと言いかえてもどっちでもいい。 私たちは不連続な存在であって、理解しがたい出来事のなかで孤独に死んでゆく個体なのだ。だが、他方で私たちは失われた連続性へのノスタルジーを持っている。そのノスタルジーの根源が、肉体・心情・聖なるエロティシズムである。 (「エロティシズム」ジョウルジュ・バタイユ) 聖なるエロティシズムというのがどうもわかりにくいが、おそらくそれは神の愛と一体化する祭礼儀式、自然、宇宙との一体感を得る体験。自分はどこから来たのか、どこへ行くのかの「源」を辿るスピリチュアルの旅は、いわばエロティシズムツアーだとバタイユ先生はおっしゃっているわけである。 つまりは「ひとつになる」ということが人間の根源的な欲望であり、どうやっても「ひとつになれない」ところに苦悩と孤独があり、引き裂かれるように死に別れることに脅え、その恐怖に耐えられずに耐えているのが人間という存在である、ということらしい。 聖なるものは、性なるものと無縁ではない。 ちなみにわたしの中では、杉本彩もりっぱなスピリチュアル求道者で、エロス修道女と呼びたいくらい。方向性は違っても高樹沙耶と並び立つ、尽くすタイプのスピリチュアルだと睨んでいる。 文・多川麗津子
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1件のコメント
辛いことが立て続けに起こったとき、自分が信じられなくなってけっこうスピリチュアルにはまりました(まさにオーラの泉の頃)。
結果、確信したのは私の人生にとって、スピリチュアルなんていらない。お天道様で十分。私、普通に良心あるし、それでいいんじゃないかな?って。
私にとっては、正直、百害あって一利なしと言って良いくらいプラスになりませんでした。むしろ、かえって自分を苦しめたように思います。
その後遺症は今もけっこう残っているかな。スピリチュアル、結局、心の傷からくる依存症みたいなものでした。
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