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迷走&発見!スピリチュアルの森

読後の一服ノート

スピリチュアルを神聖なるものとして愛する方には申し訳ないが、自分が思ってしまったことなので率直に書かしていただく。
真に生きる意味を「スピリチュアル」な世界に追求する根底には、性的な「愛」の渇望がある。
というようなことを、自分なりに深く考え至ったわけである。

たとえば、生命エネルギーを高める、エネルギーの交感というスピリチュアルならではの思考をつきつめると、それは「性」の解放に行き着く(はずである)。
とはいえ、わたしは、それにハマった人が性の解放を求めていたと言いたいのでは決してない。わたしが言いたいのは、スピリチュアルはそういう人間の根源に触れ、それを覚醒させるべく論理と手法を持ち、そこに逃げ込めば大丈夫な場所であるかのように見える世界であるということを言いたいのである。
なぜなら、紀元前のはるか昔から、世の宗教が何を厳しく禁じているかといえば、とりもなおさず「性欲」である。
「性欲」だなんて汚らわしい。わたしたちは崇高で清廉なる理念のもと、清く正しく美しいスピリチュアルライフを追求してるのよ! というグループもあるかもしれない。ただ、そこにも徹底して抑制すべきものとして「性」は存在しているといえるのではないか。

「スピリチュアル」には、丸裸の魂を丸抱えに愛され・愛したい人間の欲望を誘発し、誘惑する幻想的かつ鮮烈な世界観、人の心を包み込むように懐柔し誘導する言葉がある。
いえばイメージに魅せられ、言葉で口説かれ、酔わされるようなものである。そこで我に返って帰る自分であれば、最初から行かない話である。でも、そのときの自分には「良く見えた」。スピリチュアルに限らず「わたし、あんな男のどこが好きだったのか・・・」という類のいまだによくわからない過ちとしか言いようがない。そこはもうしょうがない。

わたしは、究極、女の「性」の部分だけに集中して突き詰めるとなると「堕ちてゆく私・・・」になるよりほか道がないような気がする。だから「そうなったら、どうなるんやろ・・・」の想像だけ後生大事に「ま、ええか」と、それなりにまかなうことが女性の現実的な「性」の使い道だと思う。
いわば「現実を生きるしかない」自覚は、そういう深い落胆とあきらめを持ってこそ、初めて至れる境地と言えるのでは。

人生も世の中も自分自身もすべて嫌になって、やけくそで身を投げ打ったり、やけっぱちでどうにかなるようなことはまずない真面目で思慮深い女性、純粋に人と向き合い、愛し合いたいロマンティックな憧れや願望のある女性は、とかくそういう部分を「視えないもの」にしてしまう帰来がある。意識せずともそうしてしまう無意識のレベルで。
ここが自分のふしぎ発見!なのである。
視えないものを視たいスピリチュアルな探求心の裏には、それを視えないものにしてきた自分がいる。
視たいけど、視たくない。でも視たい、でも視たくない…
未知なるものへの脅えと恐怖、そのタブーを犯すことで
新しい自分が開かれる奇跡。それはすべて抑圧された
もうひとりの自分が求めるものではないか・・・
リンゴを食べよと囁くヘビのごとくに。

そんなわけでわたしは、スピリチュアルの奥秘に蠢く性なるものにおいを嗅ぎ取らずにいられない。性という表現が心外であれば、エロティシズムと言いかえてもどっちでもいい。
でもそれはいかんともしがたい自分たち人間の「存在理由のようなもの」だと、フランスの思想家・バタイユは「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだ」と言い切ってくれている。

私たちは不連続な存在であって、理解しがたい出来事のなかで孤独に死んでゆく個体なのだ。だが、他方で私たちは失われた連続性へのノスタルジーを持っている。そのノスタルジーの根源が、肉体・心情・聖なるエロティシズムである。

(「エロティシズム」ジョウルジュ・バタイユ)

聖なるエロティシズムというのがどうもわかりにくいが、おそらくそれは神の愛と一体化する祭礼儀式、自然、宇宙との一体感を得る体験。自分はどこから来たのか、どこへ行くのかの「源」を辿るスピリチュアルの旅は、いわばエロティシズムツアーだとバタイユ先生はおっしゃっているわけである。

つまりは「ひとつになる」ということが人間の根源的な欲望であり、どうやっても「ひとつになれない」ところに苦悩と孤独があり、引き裂かれるように死に別れることに脅え、その恐怖に耐えられずに耐えているのが人間という存在である、ということらしい。
そして、そんなこむつかしい理屈はいいから「いい人見つけて結婚でもして子どもでも産め」というのが現実的なエロティシズムの帰着なのだと思う。

聖なるものは、性なるものと無縁ではない。
これが「スピリチュアルの森」を歩きながら考えた一部始終である。

ちなみにわたしの中では、杉本彩もりっぱなスピリチュアル求道者で、エロス修道女と呼びたいくらい。方向性は違っても高樹沙耶と並び立つ、尽くすタイプのスピリチュアルだと睨んでいる。

文・多川麗津子

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1件のコメント

辛いことが立て続けに起こったとき、自分が信じられなくなってけっこうスピリチュアルにはまりました(まさにオーラの泉の頃)。
結果、確信したのは私の人生にとって、スピリチュアルなんていらない。お天道様で十分。私、普通に良心あるし、それでいいんじゃないかな?って。
私にとっては、正直、百害あって一利なしと言って良いくらいプラスになりませんでした。むしろ、かえって自分を苦しめたように思います。

その後遺症は今もけっこう残っているかな。スピリチュアル、結局、心の傷からくる依存症みたいなものでした。

by Forest - 2013/10/07 4:06 PM

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