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迷走&発見!スピリチュアルの森

わたしの場合、一番の親友がスピリチュアルに心酔していくその姿を見て、彼女がそこまで信じるもの、信じさせるものはいったい何なのか、自分の目で確かめたいと引き込まれてしまった。当時、彼女はガンと闘っていて、スピリチュアルの力で治る奇跡を信じて亡くなった。わたしは彼女に奇跡が起こることを信じてみたかったんだと思う。

魚見



多川

自分の親友、大切な人が追い求めている世界を否定することはその人を否定することになるし、その人を好きな自分をも否定することになるから、信じてしまうというのはあると思う。でも、信じることが目的の集団ネットワークを仕切っているカリスマやリーダーは、そういう人間の心理を知り尽くしたプロ。だから本当に真実の探求を人生の使命とするのであれば、集団に属さずひとりでやるべきじゃないかなぁ。



苦笑・・・だと思う。あと、一歩間違ったら危いといえば、ポジティブシンキングも。スピリチュアルの世界ではポジティブであることが必須条件。魂のランクを上げる方法として(笑)。人生で起こるすべての不幸、災難はもちろん、仕事、恋愛、人間関係が上手く行かないことにも必ず意味があって、そのすべてを受け入れることが選ばれし自分のミッションみたいな。

魚見



多川

何に付けても「選ばれた感」を強調するところがうっとうしいわ〜。



(笑)ポジティブな思考が幸運や幸福を呼びこむ鍵で、それを持たない人は不幸になる。すべてが単純なロジック。でも、そうやって自分を守っていたんだと思う。スピリチュアルな人たちの話に出るキーワードが、恐怖と赦し。それを信じなければ不幸になるという恐怖心を増幅させて、そうなりたくなかったら信じてすべてを受け入れなさい。そうすれば赦されると。

魚見



多川

仏教もキリスト教も、根本の真理は「すべてを受け入れろ」。でも、受け入れたから幸せになるとか、悪いようにはならないとか、そんな俗世的な幸福など約束してないよ。
それこそ南無阿弥陀仏の心といえば、あきらめて生きて、あきらめて死ぬ。ただそれだけ。幸も不幸も苦も楽も、生きる意味も使命も価値も何もかも無い無い尽くし(苦笑)

迷走&発見!スピリチュアルの森

愛媛の漁師の娘で育った自分にしたら、自然を畏れ、自然に感謝し、自然と共に生きる父の姿こそが、自分にとってのスピリチュアルだったはずなのに…。どうしてか、そのときは見失ってた。
「その日に漁に出ると必ず何かが起こる」という地元に伝わる迷信があって、どんなに晴れた日でもその日は誰も漁に出ない。でも時々、掟破りが船を出すとやっぱり事故が起こる。それは脈々とその土地に伝わってきた漁師たちの知恵と経験であり、それこそ現場の統計学。地に足のついた土着のスピリチュアル。

魚見



多川

見えない世界に沈潜してしまうと、見えているはずの現実が見えなくなる。自分にないもの求めてもしょうがないってことよ。だって、海に生きる漁師の生き様なんて、スピリチュアルの塊やわ。



自分の中に確かにあるものがいちばん信じられるものだと気づかされた。と同時に、ないものを求めてしまう自分の危うさも思い知らされた。ほんとに、お恥ずかしい…

魚見



多川

スピリチュアルに限らず、ひとつの思考や思想パターンにハマってしまうと、主体的な思考が奪われることになりかねない。思考停止がいちばん恐い。正しいと信じたくなるものほど疑ってかからんと(笑)。

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1件のコメント

辛いことが立て続けに起こったとき、自分が信じられなくなってけっこうスピリチュアルにはまりました(まさにオーラの泉の頃)。
結果、確信したのは私の人生にとって、スピリチュアルなんていらない。お天道様で十分。私、普通に良心あるし、それでいいんじゃないかな?って。
私にとっては、正直、百害あって一利なしと言って良いくらいプラスになりませんでした。むしろ、かえって自分を苦しめたように思います。

その後遺症は今もけっこう残っているかな。スピリチュアル、結局、心の傷からくる依存症みたいなものでした。

by Forest - 2013/10/07 4:06 PM

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