読後の一服ノートあと書き: Ritsuko Tagawa
仕事にはお金に代えられない恩恵がある。今の自分を作ってくれたのも、仕事で得たお金、知識、経験、そこで出会った人たちだ。わたしが仕事をやめない理由も、そういう物心ともに満たされる収入の道を失いたくないから。 もっと深掘りすれば、わたしが続けたいという仕事は、自分を殺してでも全うすべき任務や責務ではない。仕事を請けた責任と結果を出す使命はあっても、そこには必ず自分がいる。今の仕事が、自分を殺し、自分などないものとして耐え、我慢し、辛抱してこその仕事だとしたらどうか。わたしは間違いなく逃げ出すだろう。 今回の特集を書きながら、迷い込み落ち込んだのは、そこの部分。女房子どもを食わせるため、従業員の給料を払うため、この会社を潰さないために、自分などなきものとして働かねばならない境遇に至っても、今と同じ気持ちで仕事に臨めるか。残念ながら、わたしの覚悟はそこまでではない。 品質技術ではなく価格競争のみを強いられる製造業や、出口の見えない構造不況のトンネルを掘り続ける建築土木業、退くも地獄、進むも地獄、底割れの不況にあえぐ中小町工場の社長。彼らにとっての仕事と私にとっての仕事は明らかに違う。 「NewsWeek」「日経ビジネス」「東洋経済」で語られる仕事とわたしが向き合っている仕事は、空母戦艦と白鳥ボートほどの差があるのだということを、今さらながら認識させられた。と同時に、たとえ白鳥ボートでもビジネスの海に乗り出していることには変わりはないと、まんざらでもない気分にもなった。 とはいえ、そうした個人発想の仕事論をいくら話したところで、世の大半のサラリーマン男性から言わせれば、所詮キレイゴトにしか聞こえないのも無理はない。彼らにとっては、仕事とは逃れたくても逃れられない運命であり、現実的に放棄できない責任があるのだから。 けれど、わたしはそこまで負いたくないし、負う必要はないと思っている。せずともいい苦労はしなくていい女の分として。そうじゃない人もいることは重々承知で言わせてもらうと、女性(あるいは女性的感性の部分が高度に発達した創造的な男性)には、義理や責任だけで、好きでもない、可愛くもない、自分が大切だと思えないもののために、人生を賭ける度量はない。 「仕事を続ける理由」を特集して、最後に自分が行き着いた答えが、 まあその逃げ道も年々見つけにくくなってはくるが、完全になくなることはないと、そこは楽観的に達観しておいて損はないし。 5/5 |
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1件のコメント
それでも、仕事を続ける理由。社会から取り残されたくない。いろいろな人と出会いたい。必要とされたい。一緒に働いて良かったと思われたい。必死な自分でいたい。心から疲れた~っていいたい。それがあって初めて自信を持って稼いだ~って言いたい。それが私の理由。
疎外感ほど虚しいものはないから
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