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テス

『読後の一服ノート』

text: Ritsuko Tagawa

日々ことあるごとに集まって、下ネタ全開の恋愛話をぶちまけあい、泣きたいときには一緒に泣き、男と別れたとなれば「あんな男!」と一斉に袋だたきに過去を蹴散らし、誰かがつらいとなれば手に手を取ってアブダビまで傷心セレブ旅行。『SEX AND THE CITY』の爽快な面白さは「やっぱ女友だちって最高!」と女に生まれた幸せを実感できるところにあると思う。
とはいえ、実際にあんな4人がいたらどうか。「おまえらヒマか」としか思いようがない。しかも、あそこまで心の内を言いたい放題、まるごと全部ぶちまけても友だちでいられるのは、主張大国アメリカだからで、言わぬが花の日本人は、レストランに子ども連れでやって来た友だちに「せっかく大人同士で話せると思ってたのに」とか、自分がお金に困っているときに「貸そうか?」と言ってくれなかった友だちに「わたしはあなたが困っているときに何度も手を差し伸べたのに、なぜあなたはそうしてくれないのか」など、たとえ思ったとしてもクチに出しては言えない。けれど、今、自分が友だちだと信じて疑わない親友には、心の中を包み隠さずさらけ出し、存分に出し切っている感がある。そこまでは「出せない」部分があることも「いやいや、それは言わなくても・・・」とお互い相手のクチをふさぎながら、「わかる、わかる」と出し合っている。そういうテレパシーの交感みたいなコミュニケーションこそが「女友だち」が持つ絶大なるパワーなのだ。

けれどまた、日々、近しく語り合える友だちでなくても、遠く離れてたまにしか会えずとも、会った瞬間、同じ時を過ごしてきたかのように通じ合える友もいる。相手の中に自分がいて、自分の中に相手がいる。同じ時代に生きられて良かったと、ただありがたく思える存在。一生のうちに、そういう友情が持てたなら、それはもうこれ以上ないくらい生まれてきて良かったと、生きてきて良かったと感じられるものではないか。わたしにとっての友情とは、それはもう生き甲斐としか呼べないものだったりする。

昔、自分の祖母が、次々と友に先立たれていく晩年にぽつりこぼした言葉が、今も忘れられない。
「親や妹弟に死なれるのもこれほどつらく悲しいことはないが、友だちに先立たれるのは、胸に穴が空いたような、何とも言えん、寂しいもんよ」
祖母の時代のことなので、ことあるごとに友だちと集まってガールズトークで盛り上がったり、旅行に出かけたり、それこそ互いに励まし合い支え合ったりみたいなことは長い人生の中で1度もなかったに違いない。それでも、友だちという存在は、祖母の人生に寄り添うように「そこにあった」ものだったのだろう。祖母いわく、友の大事さ、本当のありがたさは「死なれんとわからん」。そして「わからんと死なれん(死ねない)」と自分に言い聞かせるようにつぶやいていた。

もうひとり、友情の哀切を思い知らされた人物といえば、森繁久弥(享年96歳)である。日本のテレビ・映画界が最も輝いていた時代を共に駆け抜けた俳優仲間、腹心の友が次々とこの世を去り、その葬儀のたび悲しみに打ちひしがれた姿で杖をつき参列していた森繁翁。その映像を見るたび、はかりしれない寂寥感に胸が締めつけられた。「本来ならば、わたしが・・・」友に語りかける言葉の中で、こんなにも悲しくつらい言葉はあるだろうか。

そんな森繁翁の無念が滲む後ろ姿に、友情の何たるかを痛切に感じ取ったわたしは、いつも親友との別れ際、「ほな、また!」と手を振りながら心の中で縁起でもないことを祈ってしまうのである。
「とにかく、死なんとってな(死なないでね)」と。

文・多川麗津子

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