salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

白線の裡側まで

2011-11-16
「昭和残侠伝」珠玉のワンパターン

その昔、祖母は還暦を過ぎたあたりで「杉良太郎の味」、母親は熟年50歳を過ぎた頃に「中条きよしの味」に突如目覚めたらしかったが、かくいうこのわたしも、40歳の妙齢にきてようやく、男が惚れる男の大吟醸・高倉健の味がわかるようになってきた。歳をとると味覚が変わるというのは、何も「食」に限った話ではないのだなと、むふっと色めいた発見にほくそ笑む今日この頃。

それもこれも、物は試しにTSUTAYAで借りた東映任侠映画の名作シリーズ「昭和残侠伝」のせいである。任侠映画といっても、「仁義なき〜」に代表されるえげつなくハードでバイオレンスな実録ヤクザ物ではなく、やむにやまれぬ渡世の義理とやるせない人情が織りなす「任侠人情絵巻」を見るような、何とも言えない風情と趣が切なく心に沁みる名画である。
そして、そこに映し出される主演・高倉健の端正かつ質実剛健な姿形も、健さん扮する極道者・花田秀次郎の生き様も、なにもかもが息苦しいほど美しい。つねに「選択肢のない人生」に羽交い締めに身をよじり、全身これ義理縛りの不自由なパターンを崩さない秀次郎。二言目には「あっしたちには、渡世の義理ってもんがあるんすよ」と己を捨て、仕事も捨て、惚れた女も捨て、粉雪舞い散る闇夜を往く着流し姿の健さんは、男の眼から見れば確かにしびれる、男が惚れる男っぷり。とはいえ、現実の女の眼からすれば、あんたは即身仏のミイラかと、信じられない「欲のなさ」が先に立つ。

何しろ悪徳非道な敵に対抗する唯一の戦法は、ひたすら我慢、我慢の一本槍。あげくにさすがに我慢の限界を超えた最終手段は、男一匹命を捨てて殴り込んで滅多斬り。それ以外、ない。
ありえないほど我慢強く辛抱強いおかげで、どんどん窮地に追い込まれる不器用な男・高倉健。しかも肝心なことは何一つ言わない無口な男、高倉健。そんな高倉健の何がいいのか、若い時分はさっぱりわからなかったが、今なら妙にわかる。それは、身近な男どもが何かにつけて頑なに重んじる「義理」だの「筋」だの「責任」だのというものに心底共感できた試しは一度もないが、「あんたがそう言うのは、そうしかできないのは誰よりわかる」と思える人がいちばん落ち着く。だから、不自由、不器用、無口な健さんのその酸っぱさ、塩辛さ、苦々しさに何とも言えない味わいを噛みしめてしまうのだ。そう言う意味では、女の渡世の義理は何を置いても「だって好きやもん」に尽きるのかもしれん。

そんな高倉健の苦み走った格好良さもさることながら、この映画が見る者を惹きつけて止まないのは、やはりシリーズ9作すべてが珠玉のワンパターンだからだろう。観る人の感性に委ねられるアート的な抽象表現、複雑に絡み合う登場人物たちのややこしい人間関係、何を考えてるのか感情が見えにくい今どきき風情な人間などひとりも、これっぽっちも見当たらない。そこにあるのは、敵・味方、悪と正義、人として「していいこと」と「いけないこと」が明確にわかりやすい単純明快なストーリー、深読み不要の人物描写、安心と信頼のマンネリズム、それだけである。
そう、それだけのことに、なぜこんなに心和むやすらぎを感じてしまうのか。それはきっと、この映画が、近頃つとに求められる時代を読み解く先見性や自らの正当性を主張する論理的な思考、あるいは、善悪を決めつけない幅広い視野、客観的な視点などという現代的なインテリジェンスやセンスがあろうがなかろうが関係なく、誰もがすっと飲み込める「ほんまのこと」に満ち満ちているからだろう。
とくに自分自身、ドキドキときめく恋愛より、ゲンナリしょうがない生活を重んじるタイプなので、寸分違わず意表を突くことがない、「期待はできない」期待を裏切らないお決まりのパターンの方が食べ慣れているというか、飽きない人間の魅力とはそういうもんだと思い込んでるからかもしれない。
とはいえ、遠山の金さんにせよ、鬼平、必殺!、水戸黄門、果ては寅さん、トラック野郎、世の人々に長く愛される名作映画はすべてお馴染みのパターンに彩られているわけだから、なんだかんだ言っても結局みんな「わかりやすいパターン」が好きってことか。
最初の5分、登場人物の顔がだいたい出揃ったところで、「この先、何が起きてどうなるか」「悪いやつがどんな悪いことしよるか」「誰と誰がくっつくか」「誰が死んで誰が生き残るか」全部しっかり見通せるというのは、なるほどスカッと心地良いものである。とかくモヤモヤ先が見えない不安が渦巻く時代だからこそ、何が起きようとも、何がどう転ぼうとも「成るように成る」お決まりのワンパターンに変に癒されてしまうのか。

ただ、この昭和残侠伝。同じパターンの繰り返しだからといって侮れないのは、シリーズ全編を通して「政官業の利権構造と市民共同体の闘い」という難解な構造・構図がぎゅっとコンパクトに、じつにシンプルに、それでいて艶やかに描かれている点にある。シリーズ1作目は浅草マーケットの商業利権をめぐる抗争劇、2作目は炭鉱採掘利権、3作目は銚子のまぐろ漁船の漁業権、4話目はこれまた浅草を舞台に建設利権をめぐる悪徳ゼネコンと地元土建業との攻防が描かれている。
秀次郎が闘う相手は悪辣非道な敵の親分なのだが、そいつが象徴しているのは、金のある奴が強い、儲けたやつが偉い、金儲けのためなら何をやってもいい自由競争、市場原理そのものだ。「資本主義・市場主義は人を幸せにするのか」という現代のわたしたちにも通じる命題にひとり苦悶し、果敢に挑み、花と散る秀次郎。かの三島由紀夫も多分にこの「昭和残侠伝」の健さんに心酔していたというが、闘い挑むといっても今のご時世、「花と散る前にできるこがあるやろ!」とまずは結果を求められるわけだから、そこは「やり方」や「方法」を考えなければならないわけで、昭和の健さんの時代よりずっと難しいものがあるのは事実である。

やむにやまれぬ秀次郎の背中で泣いてる唐獅子牡丹。それは「そうするよりほかしょうがない」人間のパターンであり、そういうパターンが染みついた人間は、同じ過ちを繰り返すという情けない真理を物語っている。
権力vs人間、資本vs人情、利益vs義理・・・人の世の闘いの構図はいつの世も変わらぬパターンの繰り返し。でも、闘い方のパターンがいつも「死んで貰います」では、美しくとも実際には困る。ただ、もはや様式美の世界にまで極められた秀次郎のパターンを見ると、日本人はビジョンや戦略云々より「筋を通す」ことに必死になった方がどうもいいような気がする。

健さん扮する秀次郎と往年の銀幕スター池部良扮する重吉、まるで心中する男女のような死出の道行き。

秀さんと重吉、相合い傘の唐獅子道中。毎回ラストは、重吉が死に秀次郎は生き残る。どこかしら漂うホモセクシャルな趣は、気のせいか。

ご意見・ご感想など、下記よりお気軽にお寄せ下さい。

2件のコメント

①二言目には「あっしたちには、渡世の義理ってもんがあるんすよ」これは映画から伝わる正確な印象とは違うと思います。久世光彦氏の引用にも正確さ、歌詞も違うところがありました。余分ですが。
②秀二郎は秀治郎です。

by 卓ちゃん - 2014/04/12 2:26 PM

「昭和残侠伝」シリーズは全9作品製作された。

しかし、6作目「人斬り唐獅子」8作目「吼えろ唐獅子」、9作目「破れ傘」の3作品はこのシリーズの本流には属さない。

特に8作目と9作目はキワモノというか駄作である。
このシリーズの1作目から3作目までのメガホンを取り、ヒットシリーズに育てたのが佐伯清監督。
この2作品も同じ監督の作品なのだが、とても同じ監督のものとは思えない出来となっている。

因みに6作目の「人斬り唐獅子」については脚本の出来が良い分、3作品中、映画は一番まとまっている。
だけど、高倉健と小山明子のロマンスに軸が置かれていて、男の映画ではなくなっている。スタッフを見て納得した。

当時 東映で、女性を撮らせて東西随一と称された山下耕作監督作品なのだ。
だからこれはシリーズから外れた別物として観たらそれなりに楽しめると思う。

ではなぜこの3作品がキワモノかというと、シリーズのセオリーをハズれているから。

このシリーズは高倉健と池部良が主人公なのである。この2人に藤純子(の場合が多い)が絡んだ三角関係をなすところにシリーズの醍醐味がある。これを崩すと映画全体のバランスが狂ってしまうのだ。

これに、鶴田浩二や片岡千恵蔵、北島三郎などを絡ませると別の映画に様変わりしてしまう。毎年正月映画として公開されていたオールスター豪華顔見世任侠映画ならそれでいい。

だがこれは昭和残侠伝なのだ。きちんとセオリーを貫く所に映画の美学が生まれる。

本来のパターンが一際映えて、白眉の出来となっているのが最高傑作とされる7作目の「死んで貰います」。続いて高倉健の東映時代の全盛期の作品「唐獅子仁義」。そして「血染めの唐獅子」と続く。

あと、花田「秀次郎」が役名であり「秀治郎」ではありません。

by Kサン - 2015/01/04 1:51 PM

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Ritsuko Tagawa
Ritsuko Tagawa

多川麗津子/コピーライター 1970年大阪生まれ。在阪広告制作会社に勤務後、フリーランスに。その後、5年間の東京暮らしを経て、現在まさかのパリ在住。

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