salitoté(さりとて) 歩きながら考える、大人の道草ウェブマガジン

白線の裡側まで

2011-05-8
ビンラディン殺害に見る
正義のしんどさ

今年のGWは、世間様では10日間の大型連休だったらしい。が、それも今日でおしまい。どんなに有休をプラスしようとも、これ以上GWを引きのばすことは難しい。もし10日が何かの祝日だったら、明日を有休にして12連休まで持ち越すことができるのに・・・。おそらく自分が勤め人だったら、連休最終日はそんな愚かな夢想にふけりながら、ラスト1日を何となくブルーな気分で過ごしているに違いない。賢明なる世間のみなさんはどうだろうか。そうでもないか。

そんなGWの最中に飛び込んできた驚きのニュースといえば「ウサマ・ビンラディン殺害」。「えーーーッ!!」とのけぞる衝撃ではなく、「えっ!? 」と意表を突かれた思いがした。というのも、ビンラディンが死亡した事実以上に、アメリカの正義のしつこさ、しんどさ、めんどくささ、キリのなさに凄まじい憂鬱をおぼえたからである。常日頃から国際情勢や米国の対イラク戦略、はたまた中東イスラム問題に関しては新聞・雑誌・ネットの聞きかじり程度の理解しか持っていない自分だけに、「イラクからの米軍戦闘部隊完全撤退」をオバマ大統領が宣言したことでアメリカはこれ以上深追いしないものと、そこは平和ボケした日本人らしく思い込んでいたわけである。

9.11の同時多発テロ以降、アメリカは、多数の米兵の命を失い、それ以上に夥しい数のイラク市民の命を犠牲に「テロとの戦い」を続けてきた。ブッシュ前政権からこれまでの過去10年間、サダム・フセインがイラクのどこかに隠したとされる「幻の大量核兵器」を探し出す見込み戦争に没入してきた。その結果、血まみれのアラブの暴君・フセインを天に変わって成敗することはできたのだが、いくら悪の枢軸とはいえサダム1人の首を取るのに、アメリカ自身が払った代償の大きさを考えると「そこまでやるか・・・」と、世界中が首を傾げたくなるのもそのはずである。

しかも、肝心のテロとの戦いはまったく決着がつかないどころか、米国のイラク侵攻によって肝心のテロ組織は世界中に分散化。同時に、テロの恐怖もまた世界中に散らばったわけである。「テロとの戦い」というアメリカの因果が、なぜ人類共通の命題へと発展し拡大してしまうのか。それは、良くも悪くも世界のどこかで「助けて〜!」の悲鳴が聞こえれば、すぐさま腕まくりして世界の果てまで飛んで行くような血気盛んな国は、やっぱりアメリカしかいないからじゃないか。キャー!!と1匹ネズミかゴキブリが出るやいなや、「敵はどこだ!」と店中たたきつぶして「くそー!」と爆破、廃墟の煙の中にぼう然と立ち尽くす店主夫婦に「敵は死んだ、もう安心だ」と星条旗のマントを翻し去っていく。ただ、それでも、他人ごとにそこまで首を突っ込んで面倒なことをしてくれる国は、アメリカ以外、どこにもないということもひとつの事実なのである。

おそらくは、自分たちがやり過ぎであることは、アメリカ自身もわかっている。現に、アメリカ国民の6割以上はイラク戦争は間違いだったと答えている。しかし「正義」というものは、「やる」という行為によってしか成されないものである。武力行動が伴わない「正義のヒーロー」など、それこそ「一休さん」くらいしか思い浮かばない。となると、あれがヒーローか? 違うやろ? みたいな話である。

オバマ大統領は、ビンラディン容疑者死亡を明らかにした緊急声明の中で「正義は成された」と述べた。つまり正義というのは、アメリカの行いによって成されるもので、アメリカが何もしなければこの世の正義は発動されない。正義のルーツはアメリカでないと、世界の正義とは「成らない」のである。おそらくアメリカが今回のビンラディン殺害を機に、今一度広く世界に向け言っておきたいのは、「ここまで大変なこと、他に誰がやりますか? やれますか?」ということだろう。

共産主義、独裁者、テロリズムの脅威に立ち向かう使命を、自分たちアメリカが負わなければ、いったいどこのどの国がその責務を果たすというのか。というか、どの国ができるのか。世界が正しい方向に向かうためには、まず俺たちがやらないと何も正しくならないだろうというのがアメリカの開拓者精神あふれるヒューマニズムである。その荒野のガンマンみたいな気構えは素朴で夢があって、ちょっとダサくてしびれるカッコ良さがないこともない。しかしそのワイルドさは、あまりに無茶に鍛えすぎたボディに窮屈すぎるTシャツの袖を無残に引きちぎってしまうような、ムキムキの自分ではなくパツパツのTシャツを「悪」と見なす短気な強引さの現れでもある。

たぶん、アメリカという国は、世界の正しさと自分の思う正しさが必ずしも一致するわけではない矛盾を前に立ち尽くし、うなだれ、一歩も動けず10年、20年、苦悩し続けることよりも、その矛盾を一致させるために戦うことの方がイヤじゃないのだ。そっちの方が面倒ではないのだ。それこそ「失われた10年」より「傷だらけの10年」の方が性に合うということなのだろう。

国も人も、結局は「好き」に生きられるわけではなく、どうすることがイヤか、どうなることがイヤかというイヤイヤ決めた選択肢に、その国、その人の自由があるような気がする。アメリカの場合は、「民主化と言っても、合う国もあれば合わない国もあるよな」とか「これ以上深追いして、また中東から恨まれるのもなぁ・・・」とか、のらりくらり問題を先送りして様子を見る「じれったさ」がイヤだということで、戦いが好きというわけでもないのだろう。

オバマ大統領は、ビンラディン死亡の5月1日夜の演説で、9月11日のあの日、アメリカ国民が受けた深い傷と悲しみを叙情詩的な表現でゆっくり追想し、この残酷な攻撃を行った者たちに正義の裁きを下すためにはやりたくもない戦争をやらねばならなかったアメリカの英雄としての苦悩と葛藤を語った。やりたくなくても、正義のためなら地獄の底まで潜伏し、どっちが敵かわからなくなるところまでやり過ぎる『24』ジャック・バウアーに象徴されるアメリカの強固で猛烈な決意を振り返った。そして最後に、何をもってしてアメリカ国民であるか、アメリカ人として何を思い、何を考え、何をすべきかを、熱い言葉で述べた。

— 私たちは今夜、アメリカがその気になってやると決めたことは何でもできるのだと実感しています。それこそが私たちの歴史です。海外において自分たちの価値観のために戦う決意もそうです。世の中をより安全な場所にするための犠牲もそうです。私たちにはこういうことができる。それは財力や権力のおかげだけではなく、私たちがアメリカ人たる所以です。私たちは神の下、分たれることなく、全ての人に自由と正義を与える一つの国の国民なのですから。どうもありがとう。皆さんに神様の祝福を。そして神がアメリカ合衆国を祝福してくださいますようにー
(5月2日 オバマ大統領声明文より抜粋)

さすが、とことんやり過ぎるだけのことはある。まったくもって「言葉足らず」なところがない。ここまで毅然と明確にきっぱり正義を語られるとグーの音も出ないどころか、思わず唸らされる。普段見慣れた首相や政府発表の何が言いたいのかわからないようなモヤモヤ感が微塵もない。

そして何より「自分たちの価値感のために戦う決意」が自国の歴史であると言い切る部分に、アメリカがアメリカたる所以を見た気がする。自分たちの価値感と違う国があることがアメリカにとっての「悪」なのだとしたら、アメリカの飽くなき苦悩と戦いのシーズンは、世界が終わるまで果てしなく続くことだろう。

そんなビンラディン殺害におけるアメリカの謎めいた真相ドラマは、もし、あるとすればきっと『24』劇場版で公開されることだろう。そこまでやってくれるのが、やはりアメリカなのだから。

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Ritsuko Tagawa
Ritsuko Tagawa

多川麗津子/コピーライター 1970年大阪生まれ。在阪広告制作会社に勤務後、フリーランスに。その後、5年間の東京暮らしを経て、現在まさかのパリ在住。

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